わたしたちは日常生活の中で、いろいろな事柄について「正しい」とか「誤っている」とか判断を下し、また、さまざまな知識を持っていると考えたりしますが、そういった、わたしたちの判断や知識には信頼すべき根拠があるのでしょうか。哲学者たちは、わたしたちが依って立つべき知識の究極的基盤となるものを求めてきましたが、かれらはそれに成功したのでしょうか。それとも、わたしたちの科学がそのような基盤を与えてくれるのでしょうか。あるいは、神のような絶対者に依存しなければならないのでしょうか。
7月21日
佐倉さんが何かを「正しい」と認めるときの基準や方法について簡潔にご説明願います。
7月23日
まず「空」についてを読み、それから来訪者の声とそれに対する対応を読みました。最後に「幸福のお勧め」に対する返事として書かれた文を読みました。一つお聞きしたいのは、「真理」と、それを求めずにはいられない「動機」に付いてです。「真理」とは一体何なのでしょう?
そしてなぜ「正しい」事を知らないと嫌なのでしょう?
間違っていると何がいけないのでしょうか?
何か困る事があるのでしょうか?
或いは嬉しい事があるのでしょうか?論理は、実際は分かれていない物を「仮に」基準を設けて分類し、「対象」について何か言う訳ですが、論理を絶対的なものにする「仮の」ではない「絶対的な」基準は在るのでしょうか?
論理的には視点或いは前提を変える事によって何事も「真」とも「偽」とも言えるように思いますが、この見方をすると、幸福と同様に真理も求めるのが馬鹿馬鹿しくなり、おまけとして現れたりする可能性さえあるかもしれない訳です。
よくわからない「真理」を追究するのは、「幸福」を追求するのと同じ不毛な努力であると思われますがいかがでしょうか?
もし、「真理」が「幸福」に先行するのであれば、「何か」が「真理」に先行する可能性もあり得る訳で、一体突き詰めていくと何処に行き着くのでしょうか?「真理」と言う言葉で行き付いたつもりになっても騙されず、「真理」の個人的な定義、概念、範囲などを検討し、「知りもしない他の言葉」によらず「独立して確かな何か」がいったい何処にあるのでしょうか?
考察する時、観察する時、何かを「対象」として捉えると、そこで「対象」は「視点」に依存しており、「独立して確かな何か」とは言えないと思います。そこで「視点」に目を向け、検討しようとすると、その時点でその「視点」は「対象化」され、「それはちがう」と言う事になります。「主体」「客体」という表現を持ち込めば、「客体」は「対象」の総称ともいえるので「主体」と呼ばれている方に目を向けなければならないと思います。ところが「主体」に目を向け、何かが現れるたびに「対象」として「ちがう」と切り捨てていると、私にはよくわからなくなってしまうのです。
あなたの誤魔化しをゆるさず徹底して根本まで掘り下げる真摯な姿勢でこの問題について教えていただける事を期待しております。
7月24日
>
> おたよりありがとうございます。
>
> これらの沢山のご質問はみんな、「知る」とは何か、という哲学の根本問題にかかわ
> るものですが、それにもかかわらず、わたしたちは日常生活のなかで、知っていると
> か知らないとか、正しいとか間違っているとか、なんの躊躇もなく判断しています。
> 実は、clomaさんと同じようなご質問を他の方からも受けており、わたしは、「真理
> の基盤」(仮名)とでも題して、この問題に関する自分の考えをまとめてみようかな
> と考えています。
>
> できたら2週間ぐらいでまとめたいのですが、予定どうりに終わるかどうかわかりま
> せん。
>
> おたより、ありがとうございました。
>
> 佐倉 哲
さっそくのお返事ありがとうございます。私は、この問題から逃れる事ができず、これが解消されない限り日々の日常的な行動の基盤すらなく、落ち着きません。
現在、論理的な詰めと平行して、「知る」という事、あるいはデカルトが「思う故に我在り。」と余りに乱暴に片づけてしまった「我」「在り」「思う」などの実践的検証を試みております。
思うに「我」とか「在る」を「知っている」かのような実感がするにもかかわらず、実際「知ろう」とするとまったくわからない根本的な不安感、不快感があるようです。
2週間で終わる問題では無いようにも思いますが、途中経過でも良いので時々教えていただけると助かります。
cloma
8月15日
この拙論は、上記のようなご質問にお応えするために、「真理」「論理」「真理の根拠」などについてのわたしの考察のいくつかを簡単に書き留めたものです。
声に出して語られたものであれ、紙やコンピュター・スクリーンに書かれたものであれ、あるいはまた、頭の中で無言に形成されたものであれ、真誤の対象となるものは言明です。したがって、真理とは真なる言明のことを意味します。たとえば、「昨日、雨が降った」という言明は、昨日、本当に雨が降ったのならば、真理となり、そうでなければ誤謬となります。また、「いま、ちょうど12時30分です」という言明は、一日に二回だけ真理になります。真理とはこのようなものです。
事実や経験は真誤の対象になりません。事実や経験は、それを「真であるか誤謬であるか」と問うこと自体が無意味だからです。なぜなら、あるものが真理であると言うとき、その否定、すなわち、「それは真理ではない(誤謬である)」という言い方が意味を持つものでなければならないのに、事実や経験そのものには始めから誤謬の可能性がないからです。真と誤謬の可能性があるのは、むしろ、事実や経験に関するわたしたちの判断あるいは主張にあります。したがって、真誤の判断の対象はかならず言語で構成された言明でなければなりません。真であるか誤謬であるかは言明だからです。真理は事実や経験の中にはあり得ません。真理は言葉の中にのみあり得ます。
真誤の判断の対象は言明ですが、すべての言明が真誤の判断の対象になるわけではありません。単語や句は真誤の対象とはなりません。たとえば、
「花」などの表現は、それを真であるか誤謬であるかと問うこと自体が無意味です。したがって、真誤の判断の対象は単語や句ではなく、文でなくてはなりません。
「鉛筆の芯」
神は真理である。という表現も厳密に言えば
神の語る言明はすべて真である。ということを意味します。しかし、すべての文が真誤の判断の対象となるわけではありません。命令文や疑問文は真誤の対象とはなりません。
はやく学校に行きなさい!などの表現も、やはり、それを真であるか誤謬であるかと問うことは無意味です。したがって、真誤の判断の対象となるのは文の中でも、それが真であるか誤謬であるかと問うことが意味を持つ、平叙文だけです。そこで、真理とはより厳密に言えば、真なる平叙文である、ということになります。
昨日、阪神は勝ちましたか?
ところで、以上の例から、真理とは事実と一致した言明を言うのだ、と思われるかも知れませんが、真理や誤謬はかならずしも、事実に依存してはいません。たとえば、
もし昨日雨が降ったのならば、「昨日雨が降ったのだ」という言明は正しい。といった同語反復の言明は、昨日雨が降ったかどうかという事実とは無関係に常に真理です。また、
この箱の中にりんごがいくつかあり、かつ、同時に、この箱の中にリンゴは一つもない。という文は、矛盾しているため、事実と無関係に、誤謬であることが決定されます。
これらの言明は事実と無関係に真誤判断ができる例です。このように、事実に依存しないで言明の真誤が決定されるのは、その真誤が文の形式にのみ依存していて、内容に依存していないからです。たとえば、「xはxである」という文は、xの内容が数字であろうが、「リンゴ」であろうが、「神」であろうが、何であろうが、最初のxと二番目のxが同じものを指すかぎり、世界の一切の事実とはまったく無関係に、同語反復という文の形式のみに依存して、それが真理であることが決定されるのです。
このように、わたしの理解するところによれば、真理とは言語によって構成された真なる言明のことです。誤謬とは誤った言明です。そして、ある言明が真であるかどうかは、事実に依存しているものと事実に依存しないものとがあります。
論理とは、前提となっている諸言明から結論となっている諸言明を導出する手続き(推論)のことを指します。推論には正しい推論も間違った推論もあります。たとえば、
前提1 すべて生きているものは必ず死ぬ。という推論は正しい推論です。「すべて生きているものは必ず死ぬ」という言明や「神は生きている」という言明が実際に真であるかどうかわかりませんが、もしこの二つの言明が正しければ、「神は死ぬ」という結論は必然的に導出されるので、この推論はまったく正しいのです。それに比べて、
前提2 神は生きている。
結論 それ故、神は死ぬ。
前提1 すべてのフランス人はヨーロッパ人である。という推論は誤っています。その前提となっている「すべてのフランス人はヨーロッパ人である」や「橋本龍太郎は日本人である」も、またその結論となっている「ビル・クリントンはアメリカ人である」も、すべて真であるにもかかわらず、正しい推論とは言えません。その結論が提示されている前提から導出できないからです。
前提2 橋本龍太郎は日本人である。
結論 それ故、ビル・クリントンはアメリカ人である。
ある言明が事実とは無関係に真理であると判断される例を最初にあげましたが、それも論理学的に言えば、論理の公理あるいは規則(同一律や矛盾律など)から導出されるものです。
このように、論理の仕事は、言明の一つ一つが実際に真であるかどうかを吟味するものではなく、言明と言明の間の関係を吟味するものです。つまり、「論理的に正しい」ということの意味は、「推論における前提がすべて正しい」ということでもなく、「推論によって導出された結論が正しい」ということでもありません。そうではなく、「提示された前提が正しければ、そこに示された結論が必然的に導出されるからその結論も正しい」ということです。
すでに述べたように、ある言明が真であるかどうかは事実に依存する場合と依存しない場合があるので、ある言明が真であるかどうかを決定する方法も基本的に二種類あることがわかります。第一の方法は、それが事実と一致するかどうかを調べることです。第二の方法は、それが論理の公理だけから導出できるかどうかを調べる方法です。第一の方法は、通常、わたしたちの日常経験や科学的実験によってなされています。たとえば、「昨日、札幌で雨が降った」かどうかの判断は、札幌に住んでいる人に聞いたり、気象庁の記録を元にしてなされます。第二の方法は構文の論理的分析によります。つまり、文の真誤が文の形式にのみに依存しているかどうかを調べます。数学の証明などもこの第二の方法と考えてよいでしょう。ある言明が真であるかどうかの決定は基本的にこのような二つの異なった方法によってなされます。
しかしながら、ある言明が真であることをどのように確実に決定するかは哲学上の大問題です。「見間違い」とか「聞き違い」という言葉が示唆するように、経験を根拠に得る判断が必ずしも信頼できるとは限らないからです。そのために、たとえば、デカルトは「われ思う、ゆえにわれ有り」という、デカルトの第一原理を提唱しました。知覚も何もかも徹底的に疑ってみると、少なくとも、「疑っている限り、疑っている自分が存在している」ことだけは確実である、という「明晰判明」な真理を発見したのです。彼は、この第一原理を根拠に、その上に真理の体系を築こうとします。
にもかかわらず、デカルトの第一原理がそれほど確実でも明晰判明でもないことは、たとえばニーチェなどによって、見破られてしまいます。
「われ思う」なる命題の中にあらわれた過程を分析するとき、ついには論証が困難なおそらくは不可能な、一連の大胆な主張につきあたる。--- それはたとえば、次のようなものである。「考うる者はこのわれである」「およそ一般に、考うるところのあるものがあらねばならぬ」あるいは「考うることは、その原因とされる一つの存在のなす活動である作用である」「およそ一つの『我』なるものが存在する」あるいは最後に、「考うるということの意味が確定している……」要するに、「われ考う」というかの言葉は、自分の現在の状態を、自分がおのれについて知る他の状態と比較することを、前提としている。それによって、自分の現在の状態が何であるかを確定するのである。自分の現在の状態は、このように他の「知識」と関連するがゆえに、自分にとって直接なる確実性を有するものではない。(ニーチェ『善悪の彼岸』竹山道雄訳)つまり、デカルトの第一原理は、彼が疑うこともなく単純に信じていた数々の前提に依存しているのです。彼の真理の根拠は究極的な根拠ではなかったのです。
一般に西欧哲学は、プラトンのイデア論から、イギリスの観念論、カントの範疇論、論理実証主義の科学主義など、何を真理の究極的根拠にするか、という問題を追求してきたといっても過言ではありません。西欧哲学を批判したニーチェでさえ、結局、「権力への意志」という観点に依存してものごとを解釈しようとします。
これらの哲学者をよそ目に、人間の浅はかな知恵にたよらず、いっそのこと、絶対なる神の言葉に依存すべきであることを教えるのがキリスト教やそれに類似した宗教です。しかし、「聖書は神の言葉である」とか、「神は存在する」といったことも、結局、人間の思い込みにすぎないのではないか、という問いに彼らは決定的な解答を与えることができません。「神が人間を造ったのではなく、人間が神を造った」という19世紀の思想家のテーゼは、いまだ、反証されていないのです。つまり、人間の想像の産物にすぎないかもしれない「神」に依存することは、ひとつも確かなことではないのです。したがって、「神のことば」は真理の究極的根拠になり得ません。
日本では、西田幾太郎の思想に「純粋経験」という考え方があります。それは「直接経験」とか「直覚的経験」ともよばれていますが、彼によれば、真理を知るとはこの純粋経験そのものだといいます。そのことを、「疑うにも疑いようのない直接の知識」とか「少しの仮定も置かない直接の知識」とか「すべての独断を排除し、最も疑いなき直接の知識」といいます。西田は真理の究極的根拠を見つけたのでしょうか。
彼のいう「純粋経験」とは、わたしたちが日常生活で語る、今日何を食べたとか、どこに行ったというような経験とは全く異なっています。
経験するというのは事実そのままに知るの意味である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっているものもその実は何らかの思想を交えているから、豪も思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。……それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象が全く合一している。これが経験の最醇なるものである。(『善の研究』13頁)ところが、さらに彼の思想を読み進んでゆくと、経験するのは、実は「一般的或者」が、個々の人間を媒介として自己発展しているのだと主張します。
純粋経験の事実としては意志と知識との区別はない、共に一般的或者が体系的に自己を実現する過程であって、その統一の極地が真理であり兼ねてまた実行であるのである。(『善の研究』45頁)これは、純粋事実にはいかなる区別もないという考えから必然的にもたらされるものです。区別がなければ、大きな唯一存在(「一般的或者」)を想定せざるを得ないからです。区別がないから、意志と知識の区別もなく、真理と実行とは同一である、というようなことにもなります。また、時間的前後という考えもなくなります。そして、このような考え方の行く着くところも想像がつきます。この点 [直接経験] よりみれば精神の根底には常に不変的或者がある。この者が日々その発展を大きくするのである。(『善の研究』92頁)
これまで論じた所によって見ると、我々が自然と名づけている所のものも、精神といっている所のものも、全く種類を異にした二種の実在ではない。つまり同一実在を見る見方の相違によって起こる区別である。……即ち宇宙にはただ一つの実在のみ存在するのである。而してこの唯一実在は…、一言にていえば独立自全なる無限の活動である。この無限の活動の根本をば我々はこれを神と名づけるのである。神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない、実在の根底が直ちに神である、主観客観の区別を没し、精神と自然を合一した者が神である。(『善の研究』120頁)これはあきらかに汎神論です。一般に西田は禅仏教に哲学的解釈を与えたと解釈されていますが、それは間違っています。西田の哲学的意義は、バラモン教(後のヒンズー教)の批判と克服として歴史に登場した仏教を、またもとのバラモン教に戻してしまったところにあります。
実在の根底には精神的原理があって、この原理が即ち神である。インド宗教の根本義であるようにアートマンとブラフマンとは同一である。(『善の研究』121頁)西田が「すべての独断を排除し、最も疑いなき直接の知識」とよんだものは、結局、実在の根底にあるという、知識も意志も感情も物質も持った唯一実在「ブラフマン神」です。そして、わたしたち一人一人の精神(アートマン)は、この神と、本当のところは、同一なのだと言います。いったいこれが、「すべての独断を排除し、最も疑いなき直接の知識」なのでしょうか。わたしたちは、通常、そのようなものは「知識」と呼ばず「信仰」と呼ぶのです。彼は「経験」という言葉を、通常の意味とは別の、特別な意味に取ることによって、彼の形而上学的な信仰にすぎないものを「知識」と呼んでいるのです。
西田は始めから、「未だ主もなく客もない」という事態が事実の真相であり、ものを分析的に捉えることは事実をそのままに見ているのではない、というドグマから出発しています。なるほど、「主もなく客もない」と表現してもよい経験はあるに違いありません。しかしながら、そのような経験が、「主と客」を分ける以前の段階の経験であるとか、「主もなく客もない」という経験が事実の真相を示しているのだとか、という彼の判断にはいかなる客観的根拠もありません。「主もなく客もない」という判断は、すでに「主と客」を分けているからこそ可能になる第二の判断である、ということも十分可能であり、また、「主もなく客もない」という判断は、実は、事実とは無関係の、自己のある特殊な心理状況の象徴的報告にすぎない、という解釈さえ十分可能だからです。西田の「純粋経験」なるものは、このように、きわめて独断的な判断であり、それは彼の思い込みにしかすぎません。そして、個人の思い込みにすぎないなら、それは、わたしたちの真理の究極的根拠にもなり得ません。
以上、真理の究極的根拠に関する主張を二三吟味してみましたが、わたしたちは、そもそも、ほんとうに、真理の究極的根拠を必要としているのでしょうか。わたしたちが、真理の究極的根拠をもとめるのは、それがなければわたしたちの知識は砂上の楼閣のように思われるからでしょう。しかしながら、わたしたちがそのように考えるのは、知識というものを、ある堅い土台の上に次々に積み上げられるような「積み木モデル」でわたしたちが捉えているからに他なりません。しかし、わたしたちの知識は、たとえば、一つの知識が崩れると他のすべてが崩れるほど緊密に統一された積み木型の知識体系を持っているわけではないのですから、このモデルはわたしたちの実際の知識にうまく対応していないようにも思われます。「真理の究極的根拠」なるものは、知識そのものが要求しているものではなく、ある特殊な(不当な)知識の捉え方(「積み木モデル」)が要求していたものと言えるかもしれません。
たとえば、わたしたちの知識は、日常生活における、見たり触ったりする体験を中心に、望遠鏡や顕微鏡などの技術をつかって、試行錯誤的にそれを延長させてできたものと考えられます。わたしたちの知識の限界はわたしたちの(視力のような)肉体的能力や技術の限界と深く関係していますから、わたしたちの知識は、 たとえば、地球に関する知識から、太陽系、銀河系と外部構造へと移行するにしたがって、あるいはまた、目の前の物体に関する知識からから、分子の固まり、原子構造、素粒子の構造や相互関係などの内部構造に移行するにしたがって、だんだん希薄になっていきます。そこで、わたしたちの知識は無限の無知空間に浮かんだ「知球」のようなものと捉えることができます。この新しいモデルによって知識を捉えなおしてみると、わたしたちの知識は、グローバル(包括的・普遍的)なものではなく、本質的にローカル(時間的にも空間的にも局所的)なものであることが、よりよく見えます。つまり、このモデルによって捉えたわたしたちの「知識」なるものは本質的に部分的なのです。目の見えない人がゾウの足に触って「ゾウとは大木のようなものである」と理解したという、有名なたとえ話がありますが、「無知空間に浮かんだ知球」というモデルに従えば、わたしたちの知識は、まさにそのようなものであると言えます。
「積み木モデル」と「知球モデル」の大きな違いのひとつは、知識の限界の捉え方に関するものです。「積み木モデル」にしたがえば、すでにいろいろ見てきたように、つまるところ、その根本の土台が確実に信頼できるものであるかどうかが大きな問題となります。そこで、このモデルにしたがえば、どんなに新しい知識を得ても、それがのっかっているところの究極的根拠に関する無知に解決をもたらされない限り、その知識はまったくの無に帰す可能性があり、常に不安感が伴います。「知球モデル」の場合は、知識の限界は、全体像が見えないところにあります。いわば、身の回りのものしか見えないのです。しかし、このモデルにしたがえば、新しい経験・実験の積み重ねそのものが、その限界を少しずつ克服し、過去の誤謬の訂正をもたらしたり、より包括的な知識をもたらすことができます。昨日ゾウの足に触ったが、今日はその鼻に触り、明日はその耳に触る、と言った具合に、「大木のようなもの」というゾウの解釈が、訂正され、発展し、より全体像に近い理解を得ることができます。人類の科学の発展が、この「知球モデル」の有効性を証ししていることは言うまでもありません。
「積み木モデル」には、さらに、ある一つの避けがたい困難が常につきまといます。すなわち、究極的根拠の主張は常に、「では、それが究極的根拠であるという、その根拠はなにか」、という無限遡及の問いから永遠に解放されることがないことです。ナーガールジュナなら、さしずめ、「それ自体で成立する真理はない」、などと言ったかも知れません。真理はそれが認められて、わたしたちの知識となるためには、なんらかの根拠の提示を必要するのに、「真理の究極的根拠」なるものにはそれがないからです。あるいはまた、逆に、「こういう根拠で、それは究極的根拠である」と主張すると、それは究極的な根拠ではなくなってしまいます。したがって、「真理の究極的根拠」とは、わたしたちがまだ知っていない何かを指すのではなく、「根拠なき根拠」というそれ自体の定義から知ることが不可能な構造的欠陥を持った概念である、と言えるでしょう。
以上のような理由で、「真理の究極的根拠」からわたしたちの知識の体系を造り上げよう、という努力は、単に不必要なだけでなく、まったく無駄な努力である、とわたしには思われます。知識とは、それが知識であるがゆえに、必ずそれは限定的(局部的、条件的)なものです。それゆえ、知識は、条件的に信頼することができ、また、新しい観察や前提の批判や再吟味によって、否定や修正や発展を可能とします。プトレマイオスの天文学とコペルニクスの天文学の関係、ニュートン力学とアインシュタインの相対性原理の関係などは、知識のこれらの性質をよく表していると思います。知識と比べて対照的なのが「究極的真理」に対する信仰です。「究極的真理」は根拠を提示しないので、まったく信頼することはできません。根拠がないので、批判や吟味の対象にもならず、したがって、修正や発展の可能はもちろんありません。「究極的真理」がわたしたちに求めるものは、信仰という名の賭にすぎません。
佐倉 哲