果たして仏教は、人間には永遠に生き続ける「魂」のようなものがあると教えたのでしょうか。仏教にとって「神」とは何なのでしょうか。仏教は神への信仰を説いたのでしょうか。本シリーズは、そのようなことなどについての、Nさんのお便りとわたしの応答です。Nさんは、仏教は「唯物論ではない」と主張され、永遠に存続する魂や神々の存在を仏教は説いたと主張されます。わたしは、仏教の「無我」の思想はそういう「永遠に存続する魂」を否定するものであり、仏教は人間の認識のとどかない形而上学的領域(神々の世界や、死後の世界など)に関する断定を知識として認めず、有神論を批判したと主張します。
97年10月6日
仏教は唯物論ではありませんが、唯物論と同様に、「永遠の魂」の存在や「神」への信仰は否定しました。とありますが、「神」への信仰は否定しました というのは正しい解釈であると思います。
しかし、「永遠の魂」の存在については、否定したとは限らないと思います。
厳密に言うと、否定も肯定もしなかったことが多かったのかもしれません。
人間の認識の届かない領域に関する断定は知識と認められないこと
という意味において認識できる範囲で説いたということがあり解釈を難しくしていると思います。
教えを学ぶ相手に合わせて説かれているので、誤解を産んだかもしれません。
永遠の生命を証明するのは、霊存在や転生輪廻をその場で直接見せて証明する方法でもとらないかぎり、不可能に近く、エドガーケイシーのように過去世のリーディングをひとりひとりやっていたのではきりがないですね。
現代のようにマスメディアが発達したら多少効果はあるでしょうが、それでも体験した人が死んだら、作り話程度と思われてしまいます。
しかし、
人間を非苦から解放するという宗教的目的(涅槃・解脱)に役立ないこと、すべては縁起によって生成変滅しているという経験的事実(無常)にそぐわないことなどです。という仮定は、永遠の生命を認める人にとってみれば意味がないはずはないのです。
永遠の転生輪廻を前提とすれば、過去世のカルマが今世の転生に影響し、今世の生き方が来世に影響するというのは、永遠の時間の中での縁起であるので矛盾どころか、当然であるとさえ考えられます。
問題はこの当然のことをどう伝えるかにかかってきます。
根本の問題である、なぜ生まれてきたか、という問いに答える必要が出てきます。そして、どうしてそれなら過去世を思い出すことができないのか、という問題があります。
「仏」は「神」を指導すると述べました。指導するというのは、「神」が知っていることは「仏」は当然知っているということに他なりません。
神々も転生輪廻する修行者であり、すべての人は修行の途中にいるのである。神々と呼ばれている者は前の転生と次の転生の間にあって、霊存在であり、かつ、修行の進んだ者に対する呼び名である。
とすれば、神でさえ不完全である。人間はさらに盲目である、手探りの状態である。
この状態から、いったい何ができるのか、生まれて白紙の状態からスタートして何ができるかが勝負である。
「仏」>「神」>「人」という図式が成り立ちます。この図式を超えることが解脱です。「人」が「神」の認識力を身につけたならば、苦を超えることができます。阿羅漢はバラモンの神を超えているかもしれませんが。
「仏」が下生されたならば、白紙の状態からでも仏陀となられ、法を説かれます。
その弟子が転生したならば、その法を述べ伝えるのは義務です。そのために生まれてきているからです。
悟りには段階があります。段階はあるけれども、それが生まれたときにもわかっていたら修行の意味が少なくなります。例えば、過去世がニュートンだとわかっていたら、生まれた時から科学者として運命づけられ、過去世より以上の結果を求められます。しかし、過去世が平凡なだけの人だったら、誰も期待を大きくしません。
生まれたときのチャンスを平等に、結果を公平にするためには過去世の記憶は障害になります。
これは、論理上での話ではありません。転生輪廻があるかどうかは、人がどう解釈するかは別として、仏教がどう伝わっているかも別として、転生輪廻があるかないか、真実はどちらかひとつです。90%転生輪廻があるなどというものではないのです。100%か、0%なのです。存在するかしないかなのです。
私はどう考えても、偶然に人類がアメーバから進化してでき、偶然に感性、知性、理性ができるとは思えないのです。そういう偶然などとても信じられません。「仏」、「神」の存在があり、その理念が具現化したと考えるほうがとても自然に感じられます。
素朴な信仰や、偏狭な信仰ではなく、科学的に演繹法で類推していっても「仏」、「神」は存在すると思います。
つまり、仏典に収められているさまざまな「お経」は、ブッダの教えを伝えるための文学(物語)なのです。したがって、「ウサギとカメの物語」を読んで、「西暦何年にこのウサギとカメとが競争したのか」、などと問うことがナンセンスなように、神々が登場する仏典を読んで、「だから、仏教は神の存在を信じていた」と結論をだすことはできません。
この文章に佐倉さんの宗教に対する考えがあるのではないかと思います。
「本物であるならば、本物であるという証拠を出してほしい。まだ、本物だと思えるものに出会っていないのだから」
そういう声が聞こえて来そうな感じがしました。
97年10月17日
(1)仏教は疑う余地のない明晰さで永遠の魂(アートマン)を否定した
仏教は、永遠の魂を「肯定も否定もしなかった」のではありません。仏教は疑う余地のない明確さで、永遠の魂(アートマン)の存在を否定しました。仏教が肯定も否定もしなかったのは、認識の届かない領域に関する事柄です。しかし、すでに紹介したように、認識のできる領域(肉体と心)に関しては、そのどこにも永遠の魂(アートマン)など見つからない、とはっきりと否定したのです。この区別が大切なのです。非常に大切なことなので、もう一度、引用します。よく注意して読んで下さい。
比丘よ、またここに、一人のひとがあるとするがよい。彼は、すでに覚者を見、覚者の法を知り、覚者の法に順い、あるいはまた、すでに善知識を見、善知識の法を知り、善知識の法に順い、したがって、彼は、色(肉身)は我(アートマン)であるとも、我は色を有すとも、我が中に色有りとも、色の中に我有りとも、見ることはない…。一切は因縁の結ぶがままに有り、一切は因縁の結ぶがままに壊するものであることを、ありのままに知ることができるのである。かくのごとくにして、彼においては、色・受・想・行・識、すべて壊するものであるがゆえに、彼は、このように、仏教の「我(アートマン)」否定は形而上学的論議ではなく、むしろ、わたしたちの認識能力の届く範囲内である人間存在である色・受・想・行・識(肉体、感覚、感情、意志、意識)のどこにも永遠の魂(アートマン)なるものは認められない、というものなのです。バラモン教やわたしたちの知っている巷の宗教の教えは、認識の届かない領域(死後の世界とか霊界とかあの世とか)に関するさまざまな憶測的断定に満ちています。しかし、仏教は、認識能力の届かない領域に関する断定はあくまでも知識として認めなかったのです。だから、認識の届く範囲(色・受・想・行・識)にはどこにも永遠の魂(アートマン)なるものは認められない、と主張したのです。これが仏教の永遠の魂(アートマン)否定の方法だったのです。われ(アートマン)というものはない。と知ることができるのである。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、
何によってか、わがものがあろうか。
(相応部経典22.55 増谷文雄訳)
初期の仏教が認識能力の届かない領域に関する断定はあくまでも知識として認めなかったことについては、すでに「毒矢のたとえ」の経を紹介しましたが、また、次のような興味深い経も残っています。それによるとブッダは、サーバッティという所に滞在していたとき、次のように教えたというのです。
みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。これは、わたしたちが宗教というものに対してもっている通念を打ち壊すものです。わたしたちは通常、宗教というものを、「霊界」やら「あの世」やらいろいろ神秘的なことがら語るものであると思っていますが、ブッダの思想はあきらかにそれに反対するものだったのです。これは、ブッダが「信仰を捨てよ」と説いたことや、「永遠の魂」はないと説いたことと思想的に一致するものです。また、後代の仏教(大乗仏教)が、極めて積極的に神の存在の否定を主張したことにもつながっています。逆に、Nさんがおっしゃるように、ブッダがバラモン教と同じように、永遠の魂の存在を説いていたとするならば、これらのことがまったく説明できません。誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故でしょうか。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。
(Sanyutta-Nikaya 33.1.3 佐倉訳)
(2)再び「目覚めの思想」について
わたしは、この対論を利用して、いままでの仏教研究になかった、いくつかの新しい発見を紹介しているのですが、そのひとつが、永遠の魂の信仰が歴史的にどのようにして生まれてきたかに関するものです。もちろん、人間はだいたい誰でも、死にたくないので、それが大きな理由であることは、間違いがないのですが、もっと具体的な歴史的証拠が必要です。わたしはそれを、インドのヴェーダ経典やウパニシャッドなどのバラモン経典に見出すことができるのではないかと思います。すでにスケッチ的に紹介したのですが、バラモンの行者たちが、最初期の段階では、夢のなかの出来事をそのまま事実であると解釈していることは注意すべき事実です。寝ている間に自分がさまざまなところにゆくことができる体験は永遠の魂(アートマン)を信じたい彼らにとっては魅力的なものだったに違いありません。彼らはさらに、ヨーガ(瞑想)という、目覚めているときでも夢が見れるようなテクニック(一種の自己催眠術)を見つけました。こうして、彼らは、夢の中の出来事を、現実以上の真実と思い込む考え方をますますエスカレートさせていきます。そして、夢の中の自己と瞑想している自分の区別がつかなくなり、瞑想しているときに空中浮遊できる、というような考え方さえ現れてきます。
認識能力の領域外における断定を知識として認めないブッダの方法は、このような状況のなかでなされたのです。仏典は、ブッダが真理を見出した事情を「目覚めた」という表現を使っています。ブッダとはまさに「目覚めた人 (buddha)」という意味です。わたしは、これを単なる比喩ではなく、夢の中の出来事と事実を区別しない、当時のバラモン教の空想的宗教家たちとの決別を意味していると思っています。(ところで、仏神が人間や世界を造ったなどという考え方はまったくのナンセンスです。ブッダというのは単に「目覚めた人」を意味するだけなのですから。ブッダは教師になりましたが、ブッダは決して信仰の対象でもなければ、救済主でもなく、ましては創造神などではまったくありえません。すでに指摘したように、仏教思想の中枢をになった人々(中観派や論理学派)は創造神という考え方そのものを積極的に論破しました。)
今、わたしの手元に、一冊の「幸福の科学」誌(97年8月号)があります。このなかに、大阪の木村幹治さん(43歳)という信者の方からの投書が載っています。
私は小学三年生の時、木から落ちて頭に大ケガをし、手術をしました。ふと気がつくと「もう一人の私」が、ベッドに横たわる自分を見おろしているのです。それ以来、私は夜中に身体を抜け出して、あの世に行く体験をするようになりました。明らかに、この方は、古代のバラモン教徒と同じく、夢の中の出来事をそのまま客観的な事実と思われています。この夢の内容が、客観的な事実であったのか、それとも、単にこの方の意識内で起こった主観的な出来事だったのかは、夢の中に登場すると言われている、「仲間二人」に実際にあって聞いてみれば、すぐ分かるのですが、どうやら、この方は、事実と思い込みを区別するという努力には興味がなさそうです。地獄に行くのは、叱られた後など、精神的プレッシャーがあるときです。突然身体が軽くなり、暗い世界をまっ逆さまに落ちて、気がつくと鬼たちに追いかけられています。つかまる寸前に目が覚めますが、すごい恐怖です。 一方、天国は明るく温かで、心が豊かにふくらむ世界です。友人たちと楽しく語らい、笑いが絶えません。
三ヶ月ほど前にも地獄を見てきました。そこには大きな会議室があり、私が入ろうとすると、受け付けの人が「お前の出身大学はどこか。専門は何だ」と高飛車な態度で尋問してきます。会議室には医者が四十人はど並んでいましたが、みな目の奥が冷たい感じでした。会議では、なんと「脳死は人の死である」と決めようとしているのです。 その場にいた仲間二人と「私たちは心の医者だ。脳死は断じて人の死ではない」と、必死で訴えたところで目が覚めました。
この世とあの世が、互いに連動するようにして関わっていることを痛感する体験でした。
(33頁)
また、Nさんは、
永遠の生命を証明するのは、霊存在や転生輪廻をその場で直接見せて証明する方法でもとらないかぎり、不可能に近く、エドガーケイシーのように過去世のリーディングをひとりひとりやっていたのではきりがないですね。現代のようにマスメディアが発達したら多少効果はあるでしょうが……と語られていますから、エドガー・ケイシーを信じておられるようですが、この人物は「眠れる預言者(Sleeping Prophet)」と呼ばれているように、自己催眠(らしきもの)によって、「夢のお告げ」をやった人です。永遠の魂の存在を信じていたこの人物もまた、きわめて無批判的に自分の夢の内容をそのまま事実として伝えた人であり、客観的事実と主観的思い込みを区別するという努力を一切しなかった人です。(「エドガー・ケイシーのデタラメな予言」参照)
このように、永遠の魂の存在を信じることと、夢の内容を事実と思い込むことは、深く関連しています。 それゆえ、わたしは、古代のインドの夢体験の記録や、現代の永遠の魂を信じる人々の夢解釈を研究分析すれば、人々が永遠の魂を信じるようになった背景には、彼らが夢の中の出来事と事実とを区別しない(できない、したくない)という共通の事実が浮かび上がるのではないかと思っています。とくに、古代インドの文献はとても古くて、人類がどのようにして永遠の魂なるものを信じるようになっていったか、その歴史的経路を知るための手がかりをあたえる重要な資料と考えられます。すでに指摘したように、わたしの調べた限られた範囲内でさえも、この資料は、夢の内容と事実を区別する意志の欠如こそ、心身とは別に存在する「真の我(魂)」を信じる信仰の母胎であったことを指し示しています。
科学の時代といわれる今日でも、夢と事実、客観的事実と主観的思い込みを区別することもせず、実際には知らない世界のことを、まるで知っている(あるいは見てきた)かのように思い込んでしまう人がいますが、二千五百年前のインドという、夢想と空想の満ち溢れるバラモン教伝統の社会のまっただ中で、人間の認識能力の届かない領域に関する断定は決して知識として認めなかった思想家が出たことは、驚くべきことだと思われますが、ある意味では当然であったとも思われます。かれが「目覚めた人(ブッダ)」と呼ばれたことは、まことに、ふさわしいことでした。
おたより、ありがとうございました。