創世記の最後を飾るのは、イスラエルの太祖ヤコブの末っ子、ヨセフの物語です。父ヤコブはヨセフが「年寄り子であったので、どの息子よりかわいがり」ました。それで兄たちから嫌われ、兄たちはヨセフを殺そうと考えます。しかし、ヨセフは殺されることはなく、結局、エジプトへ売られることになるのですが、いったい誰がヨセフをエジプトに売ったか、に関して聖書の記録は混乱と矛盾を含んでいます。
創世記の最後を飾るのは、イスラエルの太祖ヤコブの末っ子、ヨセフの物語です。父ヤコブはヨセフが「年寄り子であったので、どの息子よりかわいがり」ました。それで兄たちから嫌われ、兄たちはヨセフを殺そうと考えます。しかし、ヨセフは殺されることはなく、結局、エジプトへ売られることになるのですが、いったい誰がヨセフをエジプトに売ったか、に関して聖書の記録は混乱と矛盾を含んでいます。
使徒行伝の記録
新約聖書の使徒行伝の中で、ステファノのは、アブラハムからダビデに到るまでのイスラエルの歴史を一気に語りますが、その中で、ヤコブ(イスラエル)の末っ子ヨセフが兄たちによってエジプトに売られたことを、次のように語ります。
使徒行伝 7:9aこのように、使徒行伝の作者ルカは、ヨセフの兄たちが彼をエジプトに売ったのだと考えています。
この族長たちはヨセフをねたんで、エジプトへ売ってしまいました。
創世記の記録
また、創世記のヨセフ物語(37:1-48:21)のなかでも、後年、ヨセフが彼の兄弟たちに再開したとき、ヨセフ自身が、彼をエジプトに売ったのは兄たちであることを、次のように語ります。
創世記 45:4ところが、ヨセフがエジプトに売られたところを記述した部分を見ると、実際にヨセフをエジプト売ったのは彼の兄たちではなく、物語はもっと複雑です。少々長くなりますが、そのくだりのほぼ全文を引用します。
ヨセフは兄弟たちに言った。「どうか、もっと近寄って下さい。」
兄弟たちが近づくと、ヨセフはまた言った。「わたしはあなたたちがエジプトに売った弟のヨセフです。」
創世記 37:12-36(日本聖書協会発行「改訂版」)これをまとめてみると、次のようになります。
さて兄弟たちがシケムに行って、父の羊の群を飼っていたとき、イスラエルはヨセフに言った、「あなたの兄弟たちはシケムで羊を飼っているではないか。さあ、あなたを彼らの所へつかわそう」。ヨセフは父に言った、「はい、行きます」。父は彼に言った、「どうか、行って、あなたの兄弟たちは無事であるか、また群は無事であるか見てきて、わたしに知らせて下さい」。父が彼をヘブロンの谷からつかわしたので、彼はシケムに行った。……ヨセフが彼らに近づかないうちに、彼らははるかにヨセフを見て、これを殺そうと計り、互いに言った、「あの夢見る者がやって来る。さあ、彼を殺して穴に投げ入れ、悪い獣が彼を食ったと言おう。そして彼の夢がどうなるか見よう」。ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から救い出そうとして言った、「われわれは彼の命を取ってはならない」。ルベンはまた彼らに言った、「血を流してはいけない。彼を荒野のこの穴に投げ入れよう。彼に手を下してはならない」。これはヨセフを彼らの手から救い出して父に返すためであった。さて、ヨセフが兄弟たちのもとへ行くと、彼らはヨセフの着物、彼が着ていた長袖の着物をはぎとり、彼を捕らえて穴に投げ入れた。その穴は空で、その中には水はなかった。こうしてかれらはすわってパンを食べた。時に彼らが目を上げて見ると、イシマエルのびとの隊商が、らくだに香料と、乳香と、もつやくとを負わせてエジプトへ下り行こうとギレアデからやってきた。そこでユダは兄弟たちに言った、「われわれが弟を殺し、その血を隠して何の益があろう。さあ、われわれは彼をイシマエルびとに売ろう。彼はわれわれの兄弟、われわれの肉親だから、彼に手を下してはならない」。兄弟たちはこれを聞き入れた。時にミデアンびとの商人たちが通りかかったので、彼らはヨセフを穴から引き上げ、銀二十シケルでヨセフをイシマエルびとに売った。彼らはヨセフをエジプトへ連れていった。
さて、ルベンは穴に帰って見たが、ヨセフが穴の中にいなかったので、彼は衣服を裂き、兄弟たちのもとに帰って言った、「あの子はいない。ああ、わたしはどこへ行くことができよう」。彼らはヨセフの着物を取り、雄やぎを殺して、着物をその血に浸し、その長袖の着物を父に持ち帰って言った、「わたしたちはこれを見つけましたが、これはあなたの子の着物か、どうか見定めて下さい」。父はこれを見定めて言った、「わが子の着物だ。悪い獣が彼を食ったのだ。確かにヨセフはかみ裂かれたのだ」。そこでヤコブは衣服を裂き、荒布を腰にまとって、長い間その子のために嘆いた。子らと娘らとは皆立って彼を慰めようとしたが、彼は慰められるのを拒んで言った、「いや、わたしは嘆きながら陰府に下って、わが子のもとへ行こう」。こうして父は彼のために泣いた。さて、ミデアンびとらはエジプトでパロの役人、侍衛長ポテパルにヨセフを売った。
創世記 39:1
さてヨセフは連れられてエジプトに下ったが、パロの役人で侍衛長であったエジプト人ポテパルは、彼をそこに連れ去ったイシマエルびとらの手から買い取った。
(1)最初は、ヨセフの兄たちは、ヨセフを殺して穴に投げ入れようと考えます。
(2)しかし、ルベンの反対で、殺すことは止め、生きたまま穴に投げ入れます。
(3)後に、ユダの意見を受け入れ、遠くからやって来るイシマエルびとの隊商にヨセフを売ることを決めます。
(4)ところが、ちょうどその時、ミデアンびとの商人たちが突然あらわれ、彼らがヨセフを穴から引き上げ、やって着たイシマエルびとたちにヨセフを売ります。
(5)そこで、穴に帰ってきたルベンは、穴が空っぽであったことを発見することとなり、他の兄弟たちにそれを知らせます。
(6)しかし、どういうわけか、37章の終わりでは、エジプトでヨセフを売ったのは、イシマエルびとではなく、ミデアンびとであったことになっています。
(7)しかも、39章の始めでは、反転して、エジプトでヨセフを売ったのは、やっぱり、イシマエルびとであったことになっています。
ここには二つの矛盾があります。第一の矛盾は、直接エジプト人にヨセフを売り渡したのは、ミデアン人であるという記述(創世記37:16)と、そうではなくて、イシマエル人であるという記述(創世記39:1)との間にある矛盾です。第二の矛盾は、ヨセフの兄たちがヨセフを売り渡したという記述(創世記45:4、使徒行伝7:9)と、ヨセフの兄たちは、売ることは考えたけれど、結局実行はしなかった、つまり、ヨセフはミデアン人がイシマエル人に売り、イシマエル人がエジプトに連れていった、という記述(創世記37)との間にある矛盾です。
日本聖書協会発行「共同訳」の日本語訳について
ところで、余談になりますが、わたしが上に引用した聖書の記述は日本聖書協会の「改訂版」によるものですが、イシマエルびととミデアンびとに関する矛盾を隠蔽するために、現代語訳聖書のなかには、その部分に特殊な翻訳工夫をこらしているものもあります。その一つが、同じ日本聖書協会が発行している「共同訳」です。それを見ると、37章36節は次のように「翻訳」されています。
創世記 37:36(日本聖書協会発行「新共同訳」)すなわち、「新共同訳」自体が他の部分では「ミディアン人」と翻訳されているもとの表現が、この部分だけ「メダンの人たち」と訳出されているのです。「ミディアン」と「メダン」は音だけを聞けば似ていますから、同じ原語の別の音訳とも解釈でき、間違っているとは断定できませんが、カタカナで現すと、まったく別の言葉のように見えます。したがって、この部分は、聖書を読む者が矛盾と感じられないように意図的に工夫された日本語訳であると思われます。例えば、「メダンという地方から来たイシマエル人たち」というふうにでも、読者に解釈してもらいたいのでしょうか。「新共同訳」では、他にも矛盾を感じさせないような特殊な工夫を凝らした訳出がなされていますから、これは偶然ではなく意図的であると思われます。
一方、メダンの人たちがエジプトへ売ったヨセフはファラオの宮廷の役人で、侍衛長であったポティファルのものとなった。
現代の聖書批評学では、ヨセフをエジプトに売ったのはイシマエル人であったという伝承とミディアン人であったという、異なった二つの伝承を総合したために、このような矛盾が含まれるようになったのではないか、と解釈されているようです。例えば、『注釈付き新オックスフォード・バイブル』では、そのような解釈がなされています(The New Oxford Annotated Bible with Apocriphal/Deuterocannonical Books, OXFORD UNIVERSITY PRESS, p49)。確かに、ミデアン人がどこからともなく突然登場するところはきわめて不自然な物語の展開となっていますので、やはり、それは別々の伝承が後代に一緒にされたために起こった不自然さであり、矛盾であると思われます。
訂正:最近、別のことを調べている最中に、新共同訳が「メダン」と訳しているのは、マソラ写本(10世紀ころの聖書写本)によったものであることがわかりました。したがって、わたしが指摘した書き換えは、新共同訳によってではなく、マソラ写本系統の伝承のなかでなされたものと思われます。マソラ写本だけがそのような読みをしているようだからです。(97.12.26)