ルカもマタイもマルコも、エリコの町で、盲人がイエスによって癒された物語を記述していますが、それらの間にはいくつかの矛盾が見られます。
マタイにおける記述
マタイの記述によれば、イエスとその一行はエルサレムへ行く途中、エリコの町に立ち寄りますが、イエスは、エリコの町を出たところで二人の盲人に会い、その目に触れることによって、彼らを癒します。
マタイによる福音書 20:29-34
一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道ばたに座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんで下さい」と叫んだ。群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんで下さい」と叫んだ。イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。
マルコにおける記述
ところが、マルコの記述によれば、イエスが癒した盲人は、二人ではなく、「バルティマイ」という名前の一人の男です。しかも、その目に触れて癒すのではなく、「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った。」と言うだけで、「すぐ見えるように」なります。
マルコによる福音書 10:46-52
一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコをでて行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道ばたに座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんで下さい」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんで下さい」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
ルカにおける記述
さらに、ルカの記述によると、イエスが、エリコの町を出るときではなく、エリコの町に近づいたときに一人の盲人に出会い、イエスはそのとき彼を癒しています。そして、マルコと違って、「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」と言ったのではなく、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言ったことになっています。
ルカによる福音書 18:35-43
イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道ばたに座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、たちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆はこぞって神を賛美した。
結論
このように、福音書の「盲人癒しの物語」にはさまざまなな矛盾が見られます。すなわち、イエスが癒した盲人の相手は一人だったのか、それとも二人だったのか。イエスはエリコの町に入るとき盲人を癒したのか、それともエリコの町を出るときに盲人を癒したのか。目に触ることによって癒したのか、それとも、ただ言葉を掛けることによって癒したのか。イエスは「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」と言ったのか、それとも「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言ったのか。これらの事柄について福音書は矛盾した記述を残しており、聖書にはあきらかに誤謬があることがわかります。