歴史に関して聖書の列王記と歴代誌はたくさんの矛盾した記録を残していますが(「列王記と歴代誌の矛盾」を参照)、イスラエルの王バシャがユダを攻撃した時期に関しても、この二つの記述は調和不可能な矛盾を示しており、わたしたちが聖書の記述をそのまま鵜呑みにすることのできない多くの理由のなかの一つとなっています。
歴代誌の記録
ダビデとソロモンの築き上げた統一王国は、ソロモンの死後、北方のイスラエル王国と南方のユダ王国に分裂し互いに争うことになります。とくに、ユダ王アサとイスラエル王バシャの間には「その生涯を通じて戦いが絶えなかった(列王記上15:32)」と記されています。とくに、歴代誌下の記録によると、イスラエルの王バシャは、ユダの王アサの治世第36年にユダを攻撃したことになっています。
歴代誌下 16:1ところが、このイスラエルの王バシャがユダの王アサの治世第36年にユダを攻撃したという記録を、そのまま鵜呑みにできないのは、次のような列王記の記録があるからです。
アサの治世第三十六年に、イスラエルの王バシャはユダに攻め上ってきて、ラマに砦を築き、ユダの王アサの動きを封じようとした。
列王記の記録
列王記の記録によれば、バシャがイスラエルの王になったのはアサの治世第3年であり、バシャの治世は24年であった、となっています。そしてバシャの死後、バシャに代わってその子エラがイスラエルの王になったのは、アサの治世第26年であったと記されています。
列王記上 15:32-16:10つまり、この記録によるとアサの治世第36年にはバシャが死んでからすでに10年ほど経っていたことになります。したがって、もしこの記述が正しいとすると、イスラエルの王バシャがユダの王アサの治世第36年にユダを攻撃したという歴代誌の記述は明らかに間違っているということになります。聖書の記述を「すべて正しい」と鵜呑みにすることはできません。
アサとイスラエルの王バシャの間には、その生涯を通じて戦いが絶えなかった。ユダの王アサの治世第三年に、アヒヤの子バシャがティルツアですべてのイスラエルの王となり、その治世は二十四年に及んだ。・・・バシャは先祖とともに眠りにつき、ティルツアに葬られた。その子エラがバシャに代わって王となった。・・・ユダの王アサの治世第二十六年に、バシャの子エラがティルツアでイスラエルの王となり、二年間王位にあった。その家臣で戦車隊長半分の長であったジムリが謀反を起こした。・・・ジムリは襲いかかって、エラを打ち殺した。ユダの王アサの治世第二十七年のことであった。ジムリはエラに代わって王となった。