佐倉 哲 さま。はじめまして。

 仏教系の大学院で学んでいる石田というものです。

 「2ch」でこのページに言及している書き込みを見たという、 いささか不純かも知れない理由でなのですが、 初めて来て、読ませていただきました。

 ちょうど聞きながら閲覧していたため、 中島みゆきの歌が好き、という記述を見て 遅れたシンクロニシティを感じ、嬉しくなりました。 わたしも彼女の歌は大好きです。 「孤独の肖像」のスローテンポなバージョンと「わかれうた」は特に好きです。

 ヒトクローンについてのあなたの意見を読ませていただきました。 差別に絡めての論を展開されていますが、わたしはあなたの意見に賛成できません。  以下、わたしの意見を述べさせていただきます。 更なるご意見を伺えましたら幸いです。

 ヒトクローンを作ることと、ヒトクローンを差別すること。  この二つは全く異なる問題だとわたしは考えています。

 どこかの誰かが、もしヒトクローンを完成させてしまったのなら、 わたしは、その行為者を糾弾します。(これはほぼ断言できると思います。) ですが、その行為者の行為の結果として生まれてきたヒトクローンを 差別するつもりは、今のところありません (とは申しましても実際に目の前にしたときにどう反応するかはわかりません。  なぜなら、わたしは時として  自分の想像と全く違う行動をとることがあるからです。  しかし差別したりせず、  人権や人格をその人から奪うこともしないのではないか、  今はそう考えています)。

 ともあれ、わたしは、 ヒトクローンとして生じてしまった人間は人間として認めます。 人権や人格を認めます。彼(女)と知り合いになり、 友人になることもあり得ると思います。

 ヒトクローンを生じさせようとする人間も、人間として認めます。 (もっとも、どちらもわたしが認めるか認めないかに拘わらず、  完璧に生物として人間でしょう。) しかし、ヒトクローンを生じさせようとする考え方を容認するわけには、 わたしはいきません。

 全面的に賛成することの出来ない考え方ですが、 「自己決定」という考え方があります。 ヒトクローンの場合にわたしがその反対の根拠としているのは、 全面的には賛成できない、 この「自己決定」という考え方なのではないかと思います。

 ヒトクローンを作る場合、そこには少なくとも二人の人間が関わっています。 もとの人と、ヒトクローンとして生まれる人とです。  もとの人は何らかの意思をもって 自分のヒトクローンを作ろうとするのだと思います。 その人には「自己決定」という考え方が認められているかもしれません、 自分の体細胞は自分のモノ、と考えれば。

 しかし、ヒトクローンとして生まれる人の「自己決定」は 一体どうなるのでしょう。まったく考慮されていないのではないかと思います。 これは差別以前の問題だとわたしは考えています。

 繰り返しますが、わたしは「自己決定」という考え方を 全面的に容認しているわけでは全くありません。 それは、安楽死や「脳死」臓器移植の問題など、 現時点の医療あるいは生命倫理的問題を考えるに、 「自己決定」という考え方が、

死亡の時間を早める方向に拘束されきっているように思えるからです。  しかし、ヒトクローンの場合には、この「自己決定」を採用したいと思います。 ヒトクローンとして生まれて来る人に「自己決定」がまったく考慮されていない、 わたしはこれをヒトクローン反対の根拠にしています。

 人間はもともと、誰一人、自分で生まれたいと「自己決定」して 生まれてきた存在ではありません。 両親の思いが何らかのカタチで合致した結果として、 自分の思いとは別のところから生じたモノです。

 ですが、これをヒトクローンに援用することは、 わたしはできないと思います。 なぜなら、そこにまったく本能も緊急性もないからです。

 人間が子を為そうとするのは、 偶然によって望まぬ懐妊という事態もありますが、 基本的には本能だと思います。 不妊症などで人工授精を選択するのも、 本能と同じ方向の行為であるとわたしは思います。

 まったく別の方向ですが、人工妊娠中絶というものがあります。 望まぬ出産を妊娠後に避けるために選択される手段です。 この時に命の火を消されてしまう子どもにも「自己決定」は認められていません。 ですが、母胎の安全その他、緊急避難としては 例外的に認められてもよい手段であるとわたしは思います。

 ヒトクローンには、これらの、本能という性格も、緊急避難という性格も、 どちらも認められないとわたしは思います。 不妊治療の一種として認めてはどうか、という意見も一部にありますが、 それは養子縁組という手段で解決すべきではないか、わたしはそう考えています。

 差別しようとする側に問題がある、という意見には全面的に賛成いたします。 その通りだと思います。クローンであろうとなかろうと、ヒトはヒトです。 「セックス人間」だろうと人工授精で生まれた人間であろうと、ヒトはヒトです。 それと一緒だと思います。

 しかしだからと言って、ヒトクローン問題を差別に絡め、 それを根拠にしてヒトクローンに賛成するのは、 無理があるのではないでしょうか。

 ヒトクローンとして生じる人を、我々「セックス人間」、 あるいは人工授精などでこの世に生じた人間が差別するかどうか、 それとヒトクローンの問題とは異なっている、わたしはそう考えています。

 わたしは、ヒトクローンを人間として認めます。 しかし、 それを生ぜしめるヒトクローンという技術については全く賛成できません。 技術と、それによって生じる人間とは、分離して考えるべきだと思います。

 また、佐倉さまが差別に反対する地点からそのように考えて ヒトクローンを容認されるとしても、 ヒトクローンを今まさに作ろうとしている人間が、 佐倉さまの意見に賛同し、差別という悪癖から人類を解放するためという 崇高な使命に燃えた地点からヒトクローンを作ろうとするわけではない と思いますので、佐倉さまの意見は、そのような人間に、 利用され尽くすのではないかと危惧いたします。

 どのように崇高な目的があるものであっても、 一度社会的に存在してしまえば、利用されてしまいます。 わたしはそう思います。 差別に異をとなえるという、ごく当たり前の、 そして平等な世界を実現するためには確実に必要な、 真剣な考え方をしていらっしゃるのでしたら、 それをヒトクローンを触媒にして実現しようとなさるのは、 あまりよくないと、わたしは思います。

 以上、わたしの意見をのべさせていただきました。

 わたしは大学院生ですが、僧侶でもあります。 しかし、帰省した時くらいにしか僧侶らしいことはしていません。 わたしはわたしが気付かないうちに 仏教的な価値観に埋没してしまっているのかも解りませんが、 周囲の人間はわたしを仏教徒らしくないと評することが多いです。

 とりあえずわたしは、 「神」というものを重視しているからヒトクローンを認めていない、 というわけではありません。 わたしの信仰している仏教的価値観に全面的によった場所から 反対しているわけでもないと思います。

 ヒトクローンとして生まれてくる人間を差別することと、 ヒトクローンを生じさせる技術を容認することとは、 全く別の問題だと思います。

 それでは、失礼いたします。

 突然のメールでこんなに長くなってしまい、申しわけありません。

 できましたらお返事いただけますと嬉しいです。

 では、失礼いたします。

1.どうして双子を糾弾しないの?

どこかの誰かが、もしヒトクローンを完成させてしまったのなら、わたしは、その行為者を糾弾します。(これはほぼ断言できると思います。)ですが、その行為者の行為の結果として生まれてきたヒトクローンを差別するつもりは、今のところありません

ヒトクローン(一卵性双生児)はすでにたくさん存在しており、したがって、「ヒトクローンを完成させてしまった・・・行為者」もこの世には沢山存在しています。

一卵性双生児のクローンは、まだできたての一つの受精卵が、勝手(偶然?)に細胞分裂して、自らのクローンをつくることによってできるものです。人間は、受精卵のときには自分のクローンをつくってもよい(糾弾しない)が、成人になってからは自分のクローンをつくってはいけない(糾弾する)という主張には、論理的な一貫性がありません。

石田さんの議論にしたがえば、双子の一方(あるいは、それを許す自然の働き)を「糾弾」しなければなりません。彼(女)は受精卵の時に、自分と同じ遺伝子を持つコピー(すなわちクローン)をつくったのですから。


2.自己決定

ヒトクローンとして生まれる人の「自己決定」は一体どうなるのでしょう。まったく考慮されていないのではないかと思います。

同じことはすべての生まれてくる子どもに関しても言えます。そのことには、ご自分でもすぐお気づきになられたようで、あわてて(?)、

人間はもともと、誰一人、自分で生まれたいと「自己決定」して 生まれてきた存在ではありません。・・・ですが、これをヒトクローンに援用することは、 わたしはできないと思います。 なぜなら、そこにまったく本能も緊急性もないからです。
というふうに、「自己決定」論理とはまったく別の、「本能」と「緊急性」の論理に、すぐにすり替えられてたようです。

しかし、自分が子どもやクローンが欲しくなかったら、自分の子どもやクローンを作らねばよいのであって、自分の好き嫌いの感情を他人に押し付けて、他人にまで子どもやクローンを作らせないように強制することこそ、「自己決定」論理にもっとも反する行為(個人の選択の自由を奪う悪)ではないでしょうか。

不妊治療の一種として認めてはどうか、という意見も一部にありますが、それは養子縁組という手段で解決すべきではないか、わたしはそう考えています。
自分がそうしたいなら、そうすればよいでしょう。しかし、同じ選択を他人に押し付けるべきではありません。しかも、養子縁組という手段では解決できないのが、自分と血のつながった子孫を残そうとする、生命の最も根本的な性質です。


3.クローンを欲しがるのは本能ではない?

人間が子を為そうとするのは、 偶然によって望まぬ懐妊という事態もありますが、 基本的には本能だと思います。 不妊症などで人工授精を選択するのも、 本能と同じ方向の行為であるとわたしは思います。 ・・・ヒトクローンには、これらの、本能という性格も、緊急避難という性格も、 どちらも認められないとわたしは思います。
何が本能で、何が本能ではないか、それを単なる個人的な感覚(たまたま石田さんが生まれそだった環境で無意識的に教えられてきたにすぎない非合理的感情)で勝手に決めてもらっては困ります。子どもを欲しがるのは本能であるが、クローンを欲しがるのが本能ではない、その主張の根拠、世界中の人が納得するような客観的な根拠を示してください。そうでなければ、異性愛は本能であるが、同性愛は本能ではない、といった<偏見者の議論>と同じです。

子どもを欲しいと願う人が子どもを作ろうとするように、クローンがほしいと願う人がクローンを作ろうとしているだけなのです。欲するものを得ようとすることほど自然な行為はありません。ましてや、自分と血のつながった子孫を残そうとするのは、人間だけではなく、すべての生物のもっとも基本的な性質だからです。

そもそも遺伝子の特性とは何なのだろうか。自己複製子だということがその答えである。物理学の法則は、到達し得る全宇宙に妥当すると見なされている。生物学には、これに相当する普遍的妥当性をもちそうな原理があるのだろうか。宇宙飛行士がかなたの惑星に到達して生物を探せば、われわれには想像のつかないような奇妙な、奇怪な生物に遭遇するかもしれない。しかし、どこに住んでいようが、どんな化学的基礎を持って生きていようが、あらゆる生物に必ず妥当するようなものが何かないのだろうか。たとえ炭素の代りに珪素を、あるいは水の代りにアンモニアを利用する科学的しくみをもつ生物が存在したとしても、またたとえマイナス百度でゆだって死んでしまう生物が発見されても、さらに、たとえ化学反応に一切頼らず、電子反響回路を基礎とした生物が見つかったとしても、なおこれらすべての生物に妥当する一般原理はないものだろうか。むろん私はその答えなど知らない。しかし、もし何かに賭けなければならないのであれば、私はある基本原理に自分のお金を賭けるだろう。すべての生物は、自己複製を行う実体の生存率の差に基づいて進化する、というのがその原理である。

(リチャード・ドーキンス、『利己的な遺伝子』、303〜304頁)

生物にもっとも根本的な原理(本能)というものがあるとすれば、それは、遺伝子が自己を複製するのにもっとも都合のよい個体を進化させ繁殖させるということだ、というわけです。それはあたらしい意見ではありません。生物はすべて自分と血のつながった子孫を残そうとする、という私たちの常識を現代生物学的に表現したものにすぎません。

自然界の生物は、基本的に、有性生殖(セックス)か無性生殖(クローン)の二つの方法によって繁殖(遺伝子の自己複製)しています。したがって、クローンという繁殖方法は自然の生物の中にはあふれています。 たとえば、バクテリアもアメーバもゾウリムシも、その繁殖は有性生殖(セックス)によるものではなく、無性生殖(一つの個体が二つに分裂してコピーを作ること=クローン)によるものです。

人間も、進化論によれば、もともと、有性生殖ではなく、アメーバやゾウリムシのように、無性生殖(クローン)によって繁殖していたのです。全ての生物はかつては単細胞生物であったからです。生命が地球上に現われたのがおよそ35億年ほど前、そして多細胞生物が地球に登場するようになったのはわずか10億年前ですから、人間は無性生殖(クローン)で増殖していた時代の方がはるかに長いと言えるでしょう。自然界の生物は、基本的に、有性生殖(セックス)か無性生殖(クローン)の二つの方法によって繁殖していますが、生物によっては、そのどちらも使う生物もあります。

現在の人間も、厳密に言えば、有性生殖(セックス)と無性生殖(有性生殖によって生まれた一つの受精卵が二つに分裂してコピーを作ること=双子=クローン)の二つの方法によって繁殖しています。人間クローン技術というのは、後者を、偶然にまかせる(「できちゃった」)のではなく、意図的に、選択的に、いつでも、行えることが出きるようにすることです。すでに自然にあることを人工的にも可能とすることです。

夫婦のなかで不妊でこどもができないのは全体のほぼ15%にもなります。さらにこれから増え続けるであろう、同性愛者のカップルや独身主義者を含めれば、人間クローンが技術的に可能となりさえすれば、有性生殖(セックス)とは別の方法で、自分と血のつながった子孫を残そうとする人々はますます増えることでしょう。わたしはそのどれでもありませんが、かれらの選択の自由を尊重するものです。


4.崇高な目的?

ヒトクローンを今まさに作ろうとしている人間が、 佐倉さまの意見に賛同し、差別という悪癖から人類を解放するためという 崇高な使命に燃えた地点からヒトクローンを作ろうとするわけではない と思いますので、佐倉さまの意見は、そのような人間に、 利用され尽くすのではないかと危惧いたします。

どのように崇高な目的があるものであっても、 一度社会的に存在してしまえば、利用されてしまいます。 わたしはそう思います・・・

人間は、毎日、毎時間、毎瞬間、世界中で、生み出されています。それら人間を生み出す一つ一つのセックスがどれほど「崇高な目的」を持ってなされているかわたしは知りませんが、それらセックス人たちの目的が、クローンを欲しいと願う人々の目的より、「崇高な目的」をもっていると判断する根拠があるとも思われません。

セックス人間は「崇高な目的」なくても生まれてもよいが、クローン人間は、たとえ「崇高な目的」があっても許せないというのは、まったくひどい偏見です。

わたしは「差別という悪癖から人類を解放するためという崇高な使命に燃えた地点からヒトクローンを作ろう」というのではありません。クローンを欲しいと願う人々の意見を聞けばわかるように、彼らの動機は、ふつうの親が子どもを欲しがるのと、まったく同じです。そして、原理的に、人間クローンを否定する客観的倫理的根拠はまったくありません。人間クローン技術は、生命を殺す行為ではなく、生命を作り、生命を育てる技術だからです。

石田さんが自分のクローンを欲しくないのなら、それは石田さんの勝手です。しかし、どうして他人に自分の価値観を押し付けるのですか。他人の選択の自由を否定する、そんな権利を石田さんはいったいどこから手に入れたのですか。


5.まとめ

以上、石田さんが、人間クローンに反対される理由としてあげられた、「自己決定」の論議も、「本能」の論議も、人間クローンに反対する理由にはならず、むしろ、<人間クローンに対する非合理的反対>に反対する理由になると思われます。<人間クローンに対する非合理的反対>は人間の選択の自由を奪おうとするものであり、自らの血とつながった子孫を残そうとする第一の生命原理ともいえる、もっとも根本的な本能を否定しようとするものだからです。

人間クローンに反対する声は沢山ありますが、その根拠は一つも提示されていません。これからも提示されることはないでしょう。ここにあげられた<理由らしきもの>も、すべてセックス人間にも当てはまるものばかりです。このことから、だれでも納得できる倫理的な理由や合理的な理由があって人間クローン反対の声がおこっているのではなく、はじめから人間クローンに対する偏見的感情があって、あとから、それを無理やり正当化しようとしているにすぎないらしいことが明らかになります。

わたしは、宗教的理由以外に、人間クローンに反対する理屈付けはできないと思います。宗教とは関係のないところで、人間クローンに反対する理由を見つけようとされるので、いろいろな無理や矛盾が出てきているのだと思います。