佐倉様

こんにちわ。本当に時々ですが、貴ホームページをのぞかせていただくことがあります。聖書の記述の矛盾や間違いについての貴殿の論説が非常に面白くためになり、勉強になります。かといって貴殿の見方が常に正しいとは思いませんが、少なくとも聖書を文字通りに信じることで救われると思っている浅はかな人々の目を覚まさせるためには十分な薬になるのではないでしょうか。

私はまだ貴ホームページのすべてに詳しく目を通しておりませんので、貴殿の思想や信仰がどのようなものなのか分かりかねますが、いくつかの部分で共鳴できるように思っています(ex.個人主義の批判、和の思想、あるいはオーム信徒を排除しようとする行き過ぎた住民運動など)。

貴殿は無神論者ではないのでしょう?私はいわゆるクリスチャンではありませんが、神の存在は信じておりますし、死後の世界や霊界の存在も信じております。立花隆さんの「臨死体験」などを読みますと、ますますその存在は否定できないのではないかと思うようになりました。

貴殿が指摘されるように、聖書という書物には間違いが数多くありますが、しかしそれでも聖書が神の霊感によって書き残された書物に違いないと私は信じています。多くのクリスチャンが信じているように、イエスという人は決して神の子ではないでしょう。しかし彼は単なる妄想家でもなかったと私は信じます。彼はおそらくユダヤの伝統的な預言者の一人として神から使命を授かったのだと思いますが、しかし彼の使命はそれまでの預言者と同じではなかった。つまりイエスという人は預言者以上の使命を授かった方だったのではないかと思っております。

イエスは当時のユダヤの信仰にあった「メシア」という預言者以上の使命を帯びた存在として自ら自覚しておりましたし、またその彼の自覚は決して妄想の類ではなく真実であった、と私は信じます。ところがパウロやペテロなどの弟子たちが勝手にイエスを神の子として偶像化してしまい、本来の「メシア」の真意義が見失われてしまったのだというのが歴史の真相だと私は思っております。

いかがでしょうか?なによりも事実を重んじる貴殿にとっては、それこそ譫言の類に聞こえるかもしれませんが、一つの仮説としてはなりたつのではないでしょうか?

難しい話はこの辺にしまして(^^)、実は貴殿の自己紹介(?)のページをみさせていただき、その趣味の広さ(浅さ?)に驚くとともに、そこに「中島みゆきの歌」というのがあって内心喜んでおります。実は私は「誰も書かなかった中島みゆき論」という傲慢不遜なタイトルの論文を書き、ホームページ上で発表しております。ファンの間でもかなりの反響を呼んでいるようで、いままでにも数多くの共感や感動のメールが寄せられました。

実は本日貴殿にメールを書こうと思い立ったのは、私のHPに貴殿のHPをリンクしてみたいと思ったからです。リンクページはまだできておりませんが、来週早々にもリンクページを作成して、貴殿さえよければそこに貴サイトをのせたいと思っております。いかがですか?もちろん相互リンクをお願いしているわけではないですが、できましたら私のHPの論文をみていただいて感想だけでも聞かせていただければと願っております。

では、また。よきご返事をお待ちしております。

追伸

「誰も書かなかった中島みゆき論」のアドレス:
http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Piano/3952/

1.臨死体験

貴殿は無神論者ではないのでしょう?私はいわゆるクリスチャンではありませんが、神の存在は信じておりますし、死後の世界や霊界の存在も信じております。立花隆さんの「臨死体験」などを読みますと、ますますその存在は否定できないのではないかと思うようになりました。
わたしも、実は、臨死体験をしています。もう何年も前になりますが、シカゴの方にいるころ、歩いていて自動車にはねられたのです。立花隆はわたしのところにもインタビューにくるべきだった(^^)。そうしたら、あんな本を書く気にはならなかったでしょう。

わたしが気がついたのはベッドの中で、頭にも顔にも包帯だらけで、一体なにがあったのかさっぱりわかりませんでした。それで付添の人に聞いてみると、自動車事故にあったのだというのです。それで、とっさに聞いたのが、「わたしの方が悪かったのか」、という質問でした。わたしはそのころ毎日運転をしており、てっきり、信号無視かなんかで他の車とぶつかったのではないかと思い込んで、わたしの方に落ち度があったのかどうかを聞いたのです。そうしたら、わたしは歩いていた、というのです。

それで、なんとか思い出そうと努力していると、たしかに、わたしはいつも乗り回している車を、ショッピングセンターの駐車場に止めて、散歩に出かけたことを思い出しました。わたしは、考え事をしていて、車を止めて、散歩しながら考えることにしたのでした。それで、近くの公園のようなところまで歩いていって、そこでしばらく考え事をし、また、車のある駐車場に、歩いてもどっていた・・・とそこまで思い出すことができました。

しかし、歩きながら駐車場に戻っていたというその時から、その後のことは、ベッドで目が覚めるまで、完全な空白で、車にはねられたこと事態さえ覚えていないのです。まあ、よく生き返ったというか、生き延びたと思いますが、これがわたしの臨死体験です。

もし、臨死体験があの世についての情報を教えているとするなれば、わたしの経験から言えば、断然「あの世などというものは存在しません」という結論になることでしょう。もちろん、わたしは、そんなおろかな議論はしません。たまたま臨死状態で夢を見たからといって、その夢の内容が死後の事実を教えているなんて根拠が全然ないように、臨死状態で夢を見なかったからといって、死後の世界がないという根拠にもならないからです。立花本に載せてある臨死体験は、要するに、そのとき夢を見た人の話であって、わたしの臨死体験はそのとき夢を見なかった人の話だ、というだけのことです。

立花隆は、この本の報告に関するかぎり、ジャーナリストとしては失格ですね。臨死体験者のなかでは、わたしのように何の夢も見ない人が沢山いるのに、その報告は一切せず、自分好みの結論が出るように、情報を操作しているのですから。


2.メシア

ところがパウロやペテロなどの弟子たちが勝手にイエスを神の子として偶像化してしまい、本来の「メシア」の真意義が見失われてしまったのだというのが歴史の真相だと私は思っております。
聖書では、たとえば、イスラエル人をバビロニアから解放したペルシャの王キュロスが「メシア」と呼ばれているように、メシア(キリスト)とはイスラエルを敵(当時だったらローマ帝国)から解放する役目を与えられている人物なのですから、この聖書のメシア観から考えれば、イエスが殺された時点で、すでに、かれがメシアではあり得ないと考えたユダヤ人がいただろうと思われます。

おそらく、イスラエルを解放してくれるメシアと信じていた彼らの教祖が突然殺されたために、信者たちの間で、「実は、イエスは殺されるために神が送ってきたのだ」という言い訳の思想が、イエスが殺されたあと生まれたのではないかと思います。同じような正当化・神聖化は、オウムの麻原が死刑(?)になったあと、彼の信者たちによって行われることでしょう。日本の新興宗教の信者たちの教祖に対する姿勢を見ていると、イエスとその信者との関係を彷彿とさせるところがあります。信者の自分に対する信仰心をみて、教祖がもしかしたら自分は特別に神から選ばれた人間ではないのかと信じ始めたとしても、不思議ではありません。救世主は神ではなく信者が作るのだと思います。

それに、自分が神によって選ばれた人間であると思い込むことは、イエスや日本の宗教教祖たちに限らず、それほど特別なことではないようです。ここに自分は救世主であると思いこんだある人の貴重な手記があります。

ニューエイジの本などによると、キリストの再来というのはもうそろそろだという。しかも、そのキリストとやらは、どうやら日本に出現するらしい。ということは、もしかしたら、その救世主というのは僕のことなんじゃないだろうか、僕はそんな不安に駆られてきた。

僕は修行なんてなんにもしてないし、とうてい人格者とはいえない性格だ。人の病を治すどころか自分の水虫さえ治せない。空中浮遊どころか水中浮遊さえままならない。

いやもしかしたら、こんな僕だからあり得るのかもしれない。今までの誤った「神」や「宗教」の認識を打ち崩すには人格者や超能力者じゃいけないのだ。優柔不断でちゃらんぽらんで煩悩に満ち溢れたような人間こそ今度の救世主としては必要なんじゃないだろうか。

(「僕のハルマゲドン」より)


3.中島みゆき

実は私は「誰も書かなかった中島みゆき論」という傲慢不遜なタイトルの論文を書き、ホームページ上で発表しております。ファンの間でもかなりの反響を呼んでいるようで、いままでにも数多くの共感や感動のメールが寄せられました。
少し読ませていただきましたが、すごいですね、これは。中島みゆきに関する圧倒的に面白い評論というだけでなく、ファンとは何かについてちょっと考えさせられました。これがファンなのか、と。どうなのでしょうか、パロディ的要素があるとはいえ、スターとファンの間には教祖と信者の関係に似たものがあるのではないでしょうか。
中島みゆきの眼は、いつも、遠くのものをみているかのような視線を感じさせる。それはどのくらい遠くなのか?少なくとも目の前にある対象物ではない。私が好きな窓ガラスの内側から外の景色を覗いている(かのような)写真にしても、決して遠くにある景色を眺めているだけの視線ではない。かといって何もみていないような虚ろな内向的視線でもなく、その対象はもっともっと遠くにある対象、ある意味では、時間や空間をも越えたはるか彼方にある物をみているような視線である。

仮題「中島みゆきの眼」より)


4.宗教失敗論

僕のハルマゲドン」と「誰も書かなかった中島みゆき論」の両方を読めば、宗教の何たるかがわかるのではないでしょうか。「僕のハルマゲドン」は、いわば、自らを救世主・預言者と思い込んだ教祖側のお話しで、「誰も書かなかった中島みゆき論」は、いわば、ある他人を救世主・預言者と思い込んだ(思いたい)信者側のお話しです。

「教祖側のお話し」と「信者側のお話し」を合わせれば宗教の全体像になるわけですが、「僕のハルマゲドン」の方は信者がついてゆかれず宗教として失敗し、「誰も書かなかった中島みゆき論」の方は、教祖にその気がないので、これもまた宗教としては失敗する例です。

しかし、もし、「僕のハルマゲドン」が信者を造ることにある程度成功していたら? あるいは、中島みゆきが信者の言葉にのせられて、ついついその気になって、「もしかしたらわたくし何か使命を持って生まれてきたのかも」などと思い込んだら?そこに新興宗教が生まれていたに違いありません。

「僕のハルマゲドン」と「誰も書かなかった中島みゆき論」の例では、たまたま、教祖になろうとする人物や教祖に仕立て上げられようとされる人物の自らを見る眼が比較的冷めた、謙虚な性格なので、宗教として成立しないだけであって、かれらが、イエスや麻原彰晃や文鮮明や大川隆法のように、もっと簡単に誇大妄想に陥りやすい性格の人物であったら、第二、第三の、「イエス教」や「オウム真理教」や「統一教」や「幸福の科学」が出来上がるに違いありません。

この二つの例のように、宗教としての要素を内包しながら、宗教として大成することのできない宗教失敗例は、宗教がどのようにして成立するのかを知るのに、とても興味深い教材になると思われます。今までの宗教学では、伝統的宗教や新興宗教など、宗教として成功した例ばかりを調べてきたのですが、これからは、宗教として失敗する例も調べることによって、宗教学をより豊富な学問にすることができるのではないでしょうか。