佐倉 哲様、こんにちは。
始めてメールを送ります。
今とても悩んでいます。実は妻が幸福の科学の会員になりたいと言って聞かないのです…我が家と家族ぐるみでお付き合いしている家が会員なのは知っていましたがどうやらその奥さんから進められたようです。その家の人達は良い人達で私も大好きですが改宗をするとなるとそんなに簡単には決められません。始めはどんな宗教か解らなかったので少し勉強してから返事をすると言って色々と妻の進める本を読んだり、勉強会と呼ばれる会合にも二回ほど参加しましたがどうしても、会員になるのを許してあげる気になれません。
只一言”胡散臭すぎる”のです。人として生きていくのに当たり前の事や先人の知恵や教えを然も自分の功績の様に説いている所や、うまく説明の付かない所は此方が反論の出来ないレベル(この場合論議のレベルではなく霊的な話ですが)で誤魔化しているとしか思えないのです。
が、妻を説得しきれないでいます。自分の判断や理解を超えた事を否定するのは間違っているとか、私は霊的な存在を感じれる様になってきたとか言っています。
自分は妄信的には成らないから変な事には絶対にならない。おかしいと思ったら直ぐにでも脱会するから心配する必要は無いので私を信頼して好きにさせて欲しい。私の成長を見ていてくれればきっと納得するから…
ちょっと待って欲しい…”おかしいと思ったら”って今既におかしいでしょ?それをおかしいと思えていない事が既に問題なんです。今既にそんな状態なのにどうして正式に会員になって本格的に活動を始めた後で正常な判断が出来ますか?私を理論的に納得させる事が出来ればいつでも脱会すると言いますが自信が有りません。
別に霊や神、はたまた異星人の存在を否定するわけではありません、解らない事だからです。その解らない事、普通では証明出来ない事ををどうやって理論的に納得させれば好いんですか?
私はあまり宗教に興味の無い人間です。先祖の供養の為に仏壇に手を合わせますし人の家にお邪魔する時はその家の仏壇や神棚に手も合わせます。それが礼儀だと思っているからです。但し救いは求めないのです。自分の力や親戚、そして友達に助けてもらって生きてきたつもりですから。
私の妻は非常に素晴らしい人間で困った人を見たら手助けをしてやりたいと自然に思うことが出来る女性です。でも自分が人に助けを求めることを良しとはしないのです、たとえそれが自分の両親であってもです。前々から人に甘えることも大事だと話してきました。私が人に平気で甘えることが出来るのは、その人が私の助けを必要とした時には全力で尽力する自信が有るからです、又今までそうして来ましただから助けてもくれるし好意に甘えることも出来るのです。しかしそんな簡単に自分を変えれるもんじゃないと言って聞いてくれませんでした。その妻が今、救いを私では無く幸福の科学に求めています。妻がそこまでなるまで気が付かなかった私が悪かったことは認めます。
育児ノイローゼで自殺まで考えた事があったが私には相談出来なかったそうです。私は妻を大切に思っていますから妻を自殺から思いとどまらせてくれたのであれば其の事には素直に感謝しますが今我が家は崩壊の危機に面しています。宗教は家族全体の事だから二人で納得できるものを探していこう行こうと言う私に結局は個人の事だからと言う妻。百歩譲って夫婦だけならそれもありかもしれませんが、四人の子供はどうなります?親の責任は?このまま私が彼女を納得させられないまま入会を認め無いのであれば離婚も考えていると言います。家庭を崩壊させてまで進める信心ってなんですか?私には理解が出来ません。
今入会しないで後で後悔したくは無いから、自分の本当にやりたい事だから、やっと巡り合えた素晴らしい教えだから…今一番簡単な解決方法は好きにさせてやる事ですが絶対後で私は後悔すると思うんです。
何か良い文献は無いでしょうか?書店でそれらしいタイトルの本を一冊注文しました「幸福の科学大川隆法を斬る!」ですがまだ届いていません。そのほかに入手可能な本で良いものがあれば教えてください。
又、何か良い方法は無いでしょうか?宗教に興味の無かった私には十分な知識がありません、是非アドバイスをお願い致します。
1.選択の自由
[妻は]このまま私が彼女を納得させられないまま入会を認め無いのであれば離婚も考えていると言います。・・・・何か良い方法は無いでしょうか?宗教に興味の無かった私には十分な知識がありません、是非アドバイスをお願い致します。わたしは、幸福の科学の教えがトンデモで、大川さんは誇大妄想狂かペテン師であり、その宗教はきわめて低級なものであると思っていますから、こんなものに騙されてしまう人々がいることを残念に思います。しかし、それ以上に、わたしは個人の選択の自由を重んじるものです。どんなに危険でくだらない宗教や思想でも、個人の自由な選択を禁じるほどの悪ではないと思っています。くだらない宗教や思想に夢中になることはくだらない行為ですが、個人の自由を禁じることは人間に対する犯罪だからです。
わたし自身もかつてながいあいだ宗教(キリスト教)に夢中になっていたことがあります。わたしは、自分の意志で勝手に信仰の世界に飛び込みましたが、また、自分の意志で勝手に信仰の世界から出てきました。わたしは、本人の自由な選択ではない、他者からの強制で、ある信仰に入信させたり、その信仰を捨てさせたりする行為にたいして、きわめて批判的です。もし、何らかの理由で、幸福の科学への信仰が、強制的に禁止されるようになったら、わたしはむしろ幸福の科学の信教の自由のために戦うことでしょう。
同じような理由で、わたしは、幸福の科学について自分の考えを自由に語りますが、誰かを幸福の科学に入信させるためや、幸福の科学の信仰を棄教させるために、一方あるいは他方に加担することに消極的です。
2.反対する自由
宗教は家族全体の事だから二人で納得できるものを探していこう行こうと言う私に結局は個人の事だからと言う妻。彼女の言う通りだと思います。信仰(思想)の選択は「個人の事」だと思います。しかし、個人の自由は、当然のことながら、宗教肯定の自由だけでなく、宗教否定の自由を含みます。TYさんの幸福の科学に関する観察はきわめて正確です。
人として生きていくのに当たり前の事や先人の知恵や教えを然も自分の功績の様に説いている所や、うまく説明の付かない所は此方が反論の出来ないレベル(この場合論議のレベルではなく霊的な話ですが)で誤魔化している・・・幸福(自分の救いに都合の良い、気持ちのよい教え)を得るためではなく、事実を知りたいと思ってこの宗教を観察すれば、だれでも、この結論に帰結するでしょう。したがって、TYさんが幸福の科学に反対されるのは当然といえるでしょう。そして、彼女が幸福の科学を肯定する自由と同じ自由が、TYさんの幸福の科学に対して反対する自由にあります。
幸いに、TYさんは奥さんを大切に思っておられます。同一思想を共有することによってではなく、お互いの自由を尊重することによって、家庭を護るということもありうるのではないでしょうか。
3.幸福の科学を自由に脱会できるか
自分は妄信的には成らないから変な事には絶対にならない。おかしいと思ったら直ぐにでも脱会するから心配する必要は無いので私を信頼して好きにさせて欲しい。私の成長を見ていてくれればきっと納得するから…おっしゃる通り、一つの信仰から離脱することは、決して、奥さんのおっしゃるほど単純なことではありません。なぜなら、信仰とは一つの世界観であり、とくに幸福の科学のように系統立てられたドグマを持つ宗教であれば、いったんその中に入ってしまったものは、その視点からしかものごとを見ることができなくなるようになるからです。すべての反論は、たとえば、「巧妙な悪魔の誘惑」として、解釈することができます。ちょっと待って欲しい…”おかしいと思ったら”って今既におかしいでしょ?それをおかしいと思えていない事が既に問題なんです。今既にそんな状態なのにどうして正式に会員になって本格的に活動を始めた後で正常な判断が出来ますか?私を理論的に納得させる事が出来ればいつでも脱会すると言いますが自信が有りません。
つまり、一つの信仰に入るということは、真理の探究者であることを止めて、ドグマの護教論者になることです。何が真実であるかを調べる作業を止めて、自分の信じているドグマの正当化を始めるのです。そして、いったんドグマの正当化が始まれば、いかなる荒唐無稽な教えも、それを正当化するためのありとあらゆる言い訳を考えだす作業をするのです。
確かなものは確かなものとして、ほぼ確かなものはほぼ確かなものとして、あやしげなものはあやしげなものとして、間違っているものは間違っているものと判断する知的良心はどこかへ吹っ飛んでしまい、どんなあやしげな主張も、明らかに間違っているものと思えるものさえ、幸福の科学の教えなら正当化し、どんなに説得力のあるものでも、幸福の科学の教えに反するものは否定する、「ドグマの奴隷」が誕生するのです。
たとえば、「神の教えは、こざかしい人間の智慧ではわからない」という一見もっともらしい幸福の科学の言い訳があります。いったんこれを認めてしまえば、何が真実であるかを調べる人間の自由な作業は無意味と化し、神の教えを知っていると豪語する人間の権威への従順とその教えを正当化するための作業だけが、「真理を学ぶ」ことになります。幸福の科学とは、実に、「降伏の科学」に他なりません。
しかも、その権威への従順は救いと幸福への道であり、それに逆らうことは地獄と苦しみへの道である、という世界観が確立しているだけでなく、そこで経験するどんな苦しみも悲しみも究極的な幸福を得るための準備であり、信者の治らない病気も不慮の死も、人間には理解できない神の計らいであるという言い訳が確立していますから、自己批判の余地が無くなります。
おまけに、信仰の世界とは信仰の仲間の世界であり、困ったときは慰めあい助け合う、相互扶助のシステムが確立されています。その中は、親切であたたかい世界なのです。
このような信仰の世界から抜け出ることは、たとえ肉体的な束縛が何もなくても、容易なことではないことがわかるでしょう。ほぼ不可能というべきです。が、これは自業自得です。
4.目が覚めるとき
今一番簡単な解決方法は好きにさせてやる事ですが絶対後で私は後悔すると思うんです。もし目覚めるときがくるとすれば、おっしゃる通り、後悔されることになるでしょう。「なんであんなくだらないことに一生懸命なっていたかわからない」とご自分でも思うようになるときがくることでしょう。しかし、いまは、「神はあなたを人々を幸福に導くという素晴らしいことをするためにお造りになったのですよ」といった宗教的使命感に燃えて、何も見えないのです。
しかし、おそらく、いつか、神の意志と幸福の科学という宗教団体の方針が、果たして本当に、同一なのかどうか、疑うときがくるでしょう。また、幸福の科学を信仰している人はみんな素晴らしい人間に見えたけど、よくよく見ていると、幸福の科学の中にも、あまり尊敬できない人がいたり、信仰を持たなくても尊敬できる素晴らしい人がいるんだ、という(当たり前の)事実が見えてくるようになることでしょう。また、霊界や死後の世界について、何かわかったような気がしていたけれど、本当に霊を感じていたのか、それとも、ただそう思い込んでいたにすぎないのか、実は、その区別さえもしていなかったことに自分で気づくことでしょう。そうして、そこまで気づいたときはじめて、幸福の科学の教えを客観的に見つめ直すことができるようになるでしょう。すなわち、それが自分の幸福にとって都合がよい教えかどうかではなく、はたして本当にそれは真実なのかどうか、素直な気持ちで問い直すときがくることでしょう。そのとき、誰に言われなくても、彼女は、幸福の科学を脱会することでしょう。素直な気持ちで真実を知ろうと調べる者にとって、幸福の科学の教えのデタラメさはあまりにも明らかだからです。
最終段階における金星人は、外見は、現在の地球人によく似ており、知能指数でいうと、IQ300以上で、男女共に真珠のような素晴らしい輝きをもった天人たちのようでした。特に女性たちは、地球上のミス・ユニバースたちを集めても、かすんでしまって猿の親類にしか見えないほどの美しさでした。夢と愛と美と知性あふれる金星のユートピアがそこに出現しました。よくもこんなばかげたことを「素晴らしい教え」などと感動していた自分が恥ずかしくなることでしょう。(大川隆法、『新・太陽の法』51ページ)
5.そばにいて、冷静で思いやりのある批判的友人でありつづける
人が、どんなに気にくわない宗教に入ろうとも、その個人の選択の自由を尊重すべきだと思います。しかし、誰がどこの宗教に入ったからといって、そこで、彼(女)との間に断交が生まれるのはおかしいと思います。友人であればこそ、伴侶であればこそ、その宗教がどんなに気にくわないものでも、常にそばにいて、冷静で思いやりのある、率直な批判的友人でありつづけることが大切なのではないでしょうか。