私は幸福の科学の会員です。1995年の3月、30歳の時に入会しました。その理由はまた次の機会で書かせていただきます。それより佐倉さんの意見をつまみ読みした感想を書かせていただきます。
かなり勉強をされていて知識が深く広い方だと、尊敬の念がわきました。私はあまり本を読んでいませんので大それた意見などをさせていただくとまな板の上の鯉のように料理されてしまうのではないかとビクビクしながら書かせていただきます。
幸福の科学をはじめ、それぞれの宗教に対しての批判はとても面白く読ませていただきました。特に私に関係のある幸福の科学の会員さんの意見を一刀両断のもとに切り捨てる鋭さにはおそれいりました。
今回お尋ねしたいことは、ホームページにあった大川先生が出された内村鑑三霊言集の矛盾の指摘ですが、例えばイエス様の生まれた様子が聖書と違うから間違いだと言われてましたね。しかし別の項目では聖書自体が間違いが多いと記述されています。そして聖書も幾種類もあるようなので、佐倉さんが参考にした聖書の記述の正当性を証明する手立てを自らの手で否定されておられるように感じられますがそれについての意見をうかがいたいのですが。
次に少年犯罪の原因は親のしつけではないという意見ですが、確かに罪を犯したのがその少年本人であり当事者が裁かれるのが本筋であるは同感です。ただし仏教では全てが原因・結果の法則で成り立っているというのですから、急に少年が罪を犯すとはとても思えないのです。小さな頃からの周囲の状況・環境によって引き起こされたものだといえませんでしょうか?つまり親にも責任があると。確かに法律的には親を処罰することは述べられていないでしょうが。これに関係して中学生で幸福の科学の二世会員のグラールさんの考えは両親の影響を受けて大川先生が仏陀であると洗脳されたと答えられたようです。ということは子供の考え、人格形成には育てられ方が多いに関係するものだと佐倉さん自身がいわれているように感じるのですが。どちらが佐倉さんの真意なのでしょうか?
目に見えない物と、自分が経験していないものは信じられないという考えをお持ちのようですが、カマイタチというのをご存知でしょうか?実は私はカマイタチに遭遇したした一人です。母親の話ですが、私が一歳ぐらいのときに三輪車に乗っていたときのことです。なにか段差につまづいて土の道(昔は舗装していなかた)にゆっくりところげおちたとのこと。その一連の動作を見守っていた母親が私を抱き上げたときに子供の左側頭部にひらがなの「へ」の形をしたの大きな切り傷を発見して血が吹き出てきたそうです。そこには何も危険なものがないはずの場所なのにどうしてそうなったのか母親には全く理解出来ずにうろたえて動けなくなったのを不意にやって来た知人が急いで病院に運んで縫ってもらったのでした。
カマイタチを目で見ることは出来ないけれどさわると怪我をします(笑)。わたしの頭に「へ」型のはげが残っていることを見るにつけ確かに存在はします。大気中にある空気のムラがたまたま真空状態を作ってできたことと説明しているようですがそれなら何故、空気にムラができるのでしょうか?不思議、不思議。解明できても作り出すことは難しいだろうな。
ガリレオが「地球は回っている」と地動説を唱えたときに誰の信じようとしませんでした。しかし、現在は「天動説」を唱える人はだれもいません。コペルニクスが発表したときは確か、地球は太陽の周りを回っていると言っていたようですが、その後私たちの太陽系そのものも銀河のはずれにあって銀河の中心を基点に回転運動をしていることがわかってきました。真実と思われるものは変わっていくものなのでしょう?これを諸行無常と呼ぶのでしょうか?
自分が知っていることが絶対正しいという考えで物事をみるとその他の意見が間違って見えてつい反発したくなることがあります。だから私は常々「我、必ずしも真ならず。彼、必ずも偽ならず」という姿勢で人の意見を聞くように心がけています。ただ、自分の意見の中に矛盾だけは作りたくはありませんし、もし自分の考えの中で間違っている部分があったら修正していく柔軟性は忘れないようにしています。
ご意見お待ちしております。
(1)内村鑑三霊言集の矛盾
イエス様の生まれた様子が聖書と違うから間違いだと言われてましたね。しかし別の項目では聖書自体が間違いが多いと記述されています。
わたしの大川批判は「聖書と違うから間違いだ」という単純な批判ではありません。
聖書(旧約聖書と新約聖書)とは、およそ1000年間(西暦前9世紀ごろから西暦1世紀)という長い間に書かれたいろいろな書を集めたものであって、それは、神話、歴史書、詩、教訓集、手紙など、さまざまな形式の書から成り立っています。聖書には間違いがありますが、古代イスラエルの歴史資料としては第一級の価値のあるものです。
聖書の舞台となっているパレスチナ地方が雪に縁がないことを示すためには、聖書は必要ありません。聖書の舞台となっているパレスチナ地方の気候を知っている人にとっては、この地方が雪に縁がないことは当たり前です。
そのことは、聖書には、詩編68:15の「ツアルモン山に雪が降る」というたった一ケ所を除いて、その1000年の歴史の記述の中に、雪が積もる話などまったく出てこないという事実からも察せられます。(たとえば、日本において過去1000年間に書かれた和歌や俳句や民謡を集めてみると、そのなかに、かならずや雪について書かれている文書を沢山見つけることができるでしょう。それは日本人の生活が雪と縁があるからです。)
聖書に親しんでいる人なら当たり前のことですが、ここはいわゆる「砂漠地方」なのです。
もし本当にイエス誕生の日にぼたん雪が十センチ積もるという、あり得ないことが起こったのなら、それは神の奇跡としてイエスの物語りに取り入れられたに違いありません。新約聖書はイエスが特別の人間「神の子」であることを示すためのさまざまな奇跡物語を集積しているからです。しかし、雪などに全く縁のない人々に、そんな考えが浮かぶわけもありません。
大川さんのキリスト教に関する知識(?)は、キリスト教に無知な一般の日本人が何となく信じている、誤った俗信(たとえば、イエスの誕生日は12月25日のクリスマスの日であるなど)に過ぎないものだから、クリスマスと雪とを単純に結びつけられたのです。
(2)洗脳と幼児教育
中学生で幸福の科学の二世会員のグラールさんの考えは両親の影響を受けて大川先生が仏陀であると洗脳されたと答えられたようです。ということは子供の考え、人格形成には育てられ方が多いに関係するものだと佐倉さん自身がいわれているように感じるのですが。
まず第一の誤解は、わたしの主張をもっと正確に読んでいただけると理解していただけると思いますが、わたしは「洗脳された」と答えたのではなく、「洗脳状態にきわめて近い」と答えたのです。
[グラールさんのおっしゃるように]もし、(1)信仰は外からやって来るものであり、(2)信仰は本人にも説明できないものであるとするならば、信仰を得る過程というものは、洗脳状態にきわめて近いと考えられます。(佐倉、「作者よりグラールさんへ 99年11月16日」)
第二の誤解は、影響という事実問題と責任という倫理問題を混同されているところから生まれていると思います。わたしは、少年犯罪の責任は犯罪を犯した本人にあるとは主張していますが、「人格形成には育てられ方が多いに関係する」ことを否定してはいません。だから、
わたしは横山さんの、親は子供をしつけるべきである、というご意見にはむしろ同感するものです。しかし、中学生が凶悪犯罪を犯すとき、それは親がしつけるべきことをしつけなかったからだ、というご意見には同意できません。「親がいかなる育て方をしようが、人は凶悪犯罪を犯すべきではない!」というメッセージこそ、わたしたちが子どもたちに送るべきメッセージだと思います。(佐倉、「作者より横山貴史さんへ 98年4月10日」)
という、わたしの主張が生まれるのです。
熱心な幸福の科学の家庭に生まれてしまったために、グラールさんは、不幸にも、「洗脳状態にきわめて近い」状態を通過せざるをえなかったわけですが、そのことゆえに、グラールさんの両親を責めるべきではありません。なぜなら、「親がいかなる育て方をしようが、人は自らの道は自らの意志で選択することができる」はずだからです。
純粋な意味での「洗脳」(他者によるマインド・コントロール)などないと思います。人間には個別の選択能力(自由意志)というものがあるからです。実際にあるのは、人間の個別の選択能力(自由意志)を否定しようとする洗脳操作の試みだけです。すなわち、身体を監禁状態にして他からの情報を一切与えないというハードな洗脳操作の試みと、心を監禁状態にして他からの情報を受け入れさせないようにするソフトな洗脳操作の試みという、二種の試みです。幸福の科学の場合は後者に属すると言えます。
それは、大川さんの本を読み、信者の皆さんからのメールを読んで、だんだん明らかになってきたことなのですが、その特徴をあげますと、疑うことに対する禁制(「踏み絵」)と思考停止の奨励(「魂で感じる」)と根拠のない思い込み(「あの世のシステムすべて解明」)と知識の否定(「この世の知識」)などがあげられるでしょう。このことこそが、<疑う>あるいは<考える>という、自由な選択に必要不可欠な、きわめて重要な人間の基本的な能力が(教祖の正体やそのドグマに関しては)機能しないように、幸福の科学が試みていることを示しています。
(3)目に見えない物?
目に見えない物と、自分が経験していないものは信じられないという考えをお持ちのようですが・・・・
幸福の科学のような精神主義者が論敵に対してよく使う、いつもの使い古された切り札ですね。自分たちの空想的主張を受け入れない相手を「目に見えない物を信じない」と一方的に決めつける。「目に見えなくても存在するものがある」というわけです。空気は目に見えないけど存在する。こんどはカマイタチ。
しかし、精神主義者の主張の問題は、それが「目に見えない」からではありません。それが知識ではなく空想だからです。空想とはいうまでもなく根拠のない思い込みです。
(4)大川さんの教え
ガリレオが「地球は回っている」と地動説を唱えたときに誰の信じようとしませんでした。しかし、現在は「天動説」を唱える人はだれもいません。コペルニクスが発表したときは確か、地球は太陽の周りを回っていると言っていたようですが、その後私たちの太陽系そのものも銀河のはずれにあって銀河の中心を基点に回転運動をしていることがわかってきました。真実と思われるものは変わっていくものなのでしょう?
天動説から地動説への人類の革新と大川さんの教えとは相反する性質のものです。前者は空想から知識への前進であり、後者は知識を否定して空想へ逆行する後進です。
六次元の神界の人であると、思ったところへ飛んでいけるようなことができるということです。西欧的な人であれば、背中に羽をはやしたような形で、天使のような形をとって、そらを飛んでいくということがありますが、東洋的な形をとると、孫悟空が乗っていたきんとん雲ではありませんが、ああした雲にでも乗って、あの世の世界を飛び回るような、そうしたことも可能なのであります。(大川隆法、『永遠の法』、201頁)
[この六次元のなかには]たとえば、竜宮界という世界があります。昔から日本の昔話、伝説に出てくる竜宮という世界ですね。・・・この竜宮の中には、さまざまな生物が住んでいます。人霊だけでなくて、たとえば、竜とか、そういうものがいると昔から言われています。竜神とかいうものがいるわけですが、この竜神のような存在というものは、竜宮界の高級霊たちに使われているのです。・・・この中での感覚としては、やはり彼らも水の中に住んでいるような形になっており、地域的に言うと、日本では琵琶湖であるとか、美保の松原であるとか、あるいは、中国地方にある松江の方の美しい海岸であるとか、こうしたところを縁とした霊界があるわけです。これ以外にも、たとえば、仙人界とか、天狗界とかいうものも、一部この世界の裏側にはあります。
(同上、101〜102頁)
このエル・ランティという巨大な神霊、九次元の霊であることにおいては、もちろん、他の諸霊[ヤーヴェ、イエス・キリスト、釈迦、等々]と同格は同格なのです・・・。このエル・ランティという生命体は、地上には、長らく肉体を持ちませんでした。三億年以上も昔に、円盤で地上に渡って来て以来、地上に肉体をもっておりませんでした。
(同上、218頁)
こんなモノを本気で真理であると思っておられるのでしょうか。無理をしておられませんか。確実なものは確実なものとして、あやしいものはあやしいものとして、間違っているものは間違っているものとして、自己の知的良心にすなおに従うことができなければ、自由は束縛されているのです。