こんにちは。
私の感想をいいます。
すべての文章を読んでいませんので、間違っていたら申し訳ありません。私の感想としては、佐倉さんは、幸福の科学に自由の規制があり、カルトに近いものがあるから危険だ、とおっしゃりたいのかと思いました。
私の父親は幸福の科学の会員です。私自身は入会していませんが・・・。
でも、父に読んでみなさいといって薦められ何冊か読みました。その中に、『もし、幸福の科学に入っていることが家庭の不和につながるのなら家庭の和をとりなさい』という文章があったような気がするのですが。うーん。細かいことを言えば矛盾点や相違点がありかもしれませんが大きな流れとしては問題ないと思っているのですが。
また、勉強会(?)のようなものにも何度か参加しましたが、その後も入会を勧められこそすれ、強制は一度もされませんでした。何をしたかというと、今まで生きてきたなかで自分が他人にしてあげたこととしてもらったことを書きどちらが多いでしょう、ということでした。私はただ素直に自分は人にしてもらってばっかりで、自分からは何もしてないのにずいぶんわがままばかりしている、とおもいました。
入会しなかったのは、その勉強会の先生のような人のお話は素直に聞けたのですが、ほかの信者の方の言うことで納得いかない部分があったからです。でも、父にそのことを話すと父はすぐに園と金のメンバーと私の言ったことを話し合っていました。そんなこともあって、反論も、できますし問題ないと思いますが・・・。
地獄のことやなんかについても、私が本を読んだときの記憶ではそんな脅しめいた印象ではありませんでしたし。なんとなく、考えすぎという印象をうけるのですが。まあ、支部やなにかで方針が違うのかもしれませんが、私の父親を見ている限り何も問題ありません。と、思います。
私たち家族が幸福の科学に入らないからといってしつこくしたりしないし、父親の自我がなくなったりもしていません。お父さんはお父さんであって、団体に操られてなんかいません。
佐倉さんはたくさんの情報を勉強されて文章を構成されているのに私は感覚だけで書いてしまいました。でも私はコントロールされてませんよ、念のため。(笑)
私の少しの経験と、私の父親をみて感じたことを書かせていただきました。最初にも書きましたが、もう説明済みっっ、というものがあったら申し訳ありません。
あ、あと佐倉さんオウム関連のホームページでマインドコントロールについてかかれていましたか?大前提、小前提、結論というかたちでマインドコントロールについて説明されていたような気がします。
(1)幸福の科学と「危険なカルト」
私の感想としては、佐倉さんは、幸福の科学に自由の規制があり、カルトに近いものがあるから危険だ、とおっしゃりたいのかと思いました。「幸福の科学に自由の規制があ[る]」というのは、たしかに、わたしの幸福の科学に関する理解です。「カルトに近いものがあるから危険だ」というのはわたしの立場の正確な表現ではありません。わたしは「カルト」という表現を使わないし、危険なのは、「カルト」だからではなく、権力者〔大川さん)への絶対的服従が要請されているからです。
幸福の科学の信者さんや支部長さんとのやりとりなど、わたしの幸福の科学との個人的な関わりも、ほぼ、chinatsuさんの述べられているようなもので、いつも楽しい雰囲気で、わたしの持つ疑問などにも、親切に答えていただきました。わたしは、幸福の科学が、なんらかの物理的強制的手段でもって、信者の獲得をしているなどとは思っていません。
わたしが問題としているのは、幸福の科学における宗教的救いと大川さんという人物との関係です。 何度も引用していますが、大川さんは次のようにおっしゃっているからです。
もし、地上にある仏陀[わたし、大川隆法]の教えを誹り、これに背く者あらば、それは大宇宙大霊に意に反すると言ってよい。なぜならば、大宇宙大霊はその時代のすべての責任を仏陀に命じているからである。仏陀[わたし、大川隆法]はすべての権限をもって、地上に降りているからである。その時代の価値観を決め、その時代の正しさを決め、その時代の善とはないかを決め、その時代の真理とは何かを決める者、それが仏陀[わたし、大川隆法]である。したがって、たとえ心の中で過去の人をいかに尊敬しようとも、たとえ心のなかで、宇宙の彼方に住むかもしれぬ神仏をいかに尊敬しても、地に降りたる仏陀[わたし、大川隆法]を尊敬する気持ちがないならば、もはや、信仰ある者とは言えない。・・・人の救い、世の救いは、人々の大川さんへの絶対的従順を必用条件とする、というのがここで大川さんの言っていることです。それだけではありません。大川さんを疑わせるような行いができないように信者をしばっておくため、大川さんは、用意周到に次のような手を打っています。地上に覚者[わたし、大川隆法]あるとき、その覚者に対する信仰を忘れてはならない。地上に覚者[わたし、大川隆法]あるとき、その時代に生まれ合わせた喜びを忘れてはならない。その権威を畏れなければならない。その権威を信じなければならない。その権威に従わなければならない。その権威を否定し、忌み嫌い、この権威を自分の理解の範囲内で解釈しようとする者は、ことごとく間違いの淵のなかに投げ入れられる。それは、宇宙の仏を否定することと同じ。宇宙の仏を冒涜することと同じであるということだ。このように、仏の代理人を地上に送るということは、天上界における人格大霊(神々)の一致した考えであり、そうした代理人[わたし、大川隆法]が地上に降りてゆく時には、その者[わたし、大川隆法]の考えにすべてを合わせてゆくことが正しい行為であるのだ。これが信仰の根本であるということを、私は繰り返し繰り返し言っておく。・・・
疑いの中で真実の法は説かれない。疑いの中に広がるものは悪魔の領域である。・・・決して迷ってはならない。自分の小さな頭で何がわかるか。自分の小さな頭で理解したところで、いったい何がわかるか。小賢しい知恵で何がわかるか。なにゆえに、そのような小さな頭で、仏陀[わたし、大川隆法]の叡知を量ることができるか。仏陀を送りたもうた人格大霊の意図を見抜くことができるか。みずからの小ささをあざ笑うがよい。みずからの小ささを卑下するがよい。そのような立場に、今、自分がないということを知るがよい。疑いは、これは悪魔の心。猜疑もまた悪魔の心。恐怖もまた悪魔の心。このような心をもって探求とは言わない。・・・探求の姿勢とは、猜疑の姿勢ではない。探求心とは、猜疑心ではなく、疑念の心でもない。そのような心が起きた時、もはや修業の途上にはないと言わざるを得ない。そのような時、その者はもはや修行者とは言われない。・・・・決して、何も批判を口にしてはならない。・・・信仰とは、百パーセントの信仰にして、九十九パーセントの信仰はありえないのだ。九十九パーセントの信仰はゼロに等しい。信仰は、百パーセントを求める。それは、仏[わたし、大川隆法]はすべてであるからだ。
(大川隆法著、『仏陀再誕:縁生の弟子たちへのメッセージ』、308〜317頁)
仏法真理[幸福の科学]の下に集い、そして共に精進し、[仏陀(わたし、大川隆法)への]信仰を共にして生きている人の中に入って、彼らの[仏陀(わたし、大川隆法)への]信仰を奪い、彼らに疑念をはさませ、彼らを撹乱する罪を犯したる者は、これ和合僧破壊の罪となす。この罪より逃るるは難し。この罪、ひじょうに大きな罪にて、たとい殺人、強盗、暴行を犯すとも、これほどの罪にはなら[ない]。・・・この罪は重い。人の信仰を奪い、そして迷わせる者は、永らく地獄の中において、反省の時を待つこととなるであろう。大川さんを疑うことに導く行いは殺人より重い罪 -- 要するに、最大の罪 -- である、というわけです。(大川隆法著、『仏陀再誕:縁生の弟子たちへのメッセージ』、317〜318頁)
この書の「あとがき」で大川さんは次のように説明しておられます。
本書は読み方によって二通りの読み方があるでしょう。一つは、すでに仏法真理の道に入った者に対しては、これほど厳しい生き方があるのだということへの警告ですし、いま一つは、いまだ仏法真理の門にたちかねている者に対して、これからのちの道程がどれほどあるかということを示すための手ごろな教科書・・・となるでしょう。すなわち、上記のような大川さんへの絶対的服従(「厳しい生き方」)は、幸福の科学にまだ入信していない者や、入信してまだ間も無い者が、やがていつかはたどり着かねばならないところだ、と言われているわけです。このことは、
妻あるものであれば妻を大切にし、夫あるものであれば夫を大切にし、子供あるものであれば子供を大切にし、親あるものであれば親を大切にし、そのように家庭の調和を大事にしなければ、まず、修行者としてほんとうの修業をする資格はない。(同上、339頁)といったレベルの教えを読んで、「なかなか、よい教えではないか」などと一歩踏み込み、「幸福の科学に入って、病が治った、事業がうまくゆくようになった、人間関係が良くなった」などと深入りし、最終的に、一人の人間を神(「地上の仏陀」、「地球系霊団の最高大霊である主エル・カンターレが、地上に下生された存在」)と考え始めるようになるとき、そこから出ることがますます困難になるような仕掛けになっている、とも言えます。オウムのように体を監禁されることはなくても、心の監禁状態というものもあると思います。
(2)餌と針
私はコントロールされてませんよ、念のため。(笑)chinatsuさんの場合は、餌の周りをまわりながら、餌チョンチョンとつっついておられるだけなのでしょう。しかし、餌の中に潜んでいる針(神格化された人間)もろとも、ぱっくりと食らいついてしまえば、容易には逃れられないようになっています。
(3)幸福の科学の最大の問題
細かいことを言えば矛盾点や相違点がありかもしれませんが大きな流れとしては問題ないと思っているのですが。幸福の科学の最大の問題は、ひとりの人間を神と見なしているところにあります。これはけっして「細かいこと」ではないと思われます。