最初のメールについて 作者よりフォックスさんへ につき神秘主義がなにか 分からないと言いながら 佐倉さんは、否定しています。相手がどういった定義や視点で言い表しているのか分からないのに 否定するのは議論ではなく文句です。あなたのご意見、感想、質問はこちら へどうぞ みたいなことを書いて招いていながら、単に否定するのは礼儀が無いと思いませんか。しかしとか もし とかいう言葉を使ってもです。反論は相手に定義を聞いたあとにしたらいいと思います。

しかし、私は、おおじれない。神秘主義の定義は、いろいろで、例えば一つの哲学がもう一つの哲学を否定する場合もあり、また、神秘主義の世界は、広大で時間がかかります。私が言いたかったのは、現在の常識、以外の物があるということで世の中には、そのように考えている人間がいるという事だったのです。

それから実証 出来ないことは 無いと同じと言えますが 無いその物ではない。自分で神秘体験できる訓練をせずしてそれは無いと言えば それは空論になります。しかし、神秘体験の究極は主観性にぞくし 実証が困難です。カギのかかった部屋の様子を幽体離脱して言い当てる実験なんかありますが いちいち論じるのもキツイです。だから二通目メールで実証できないと書きました。だから論争もしたくない。

しかし、私が 佐倉さんの立場だったら。文章が、いきなり神秘主義から始まり 祈りがどうの こうのと 書いていたら。私でも、この人 なにを言ってんだろうと 否定したくなります。神秘主義と書きましたが 表現として今一つです。精神世界とかニューエイジとかも今一つです。そういう事を考えると 私の投稿は、軽率でした。 

(1)神秘主義者(フォックスさん)の信じていること

私が言いたかったのは、現在の常識、以外の物があるということで世の中には、そのように考えている人間がいるという事だったのです・・・
「現在の常識、以外の物がある」というのは、まだ発見されていない粒子や星や地球外生命が存在しているかもしれない、というような主張(そんな主張ならガチガチの唯物主義者でもする)ではなく、科学的実験や観察あるいは日常の知覚体験では原理的に知覚できないなにものかがある、という主張だろうと思います。

しかも、「神秘体験の究極は主観性にぞくし」、客観的な検証を欠いている、と言われているのですから、それは独断に過ぎず

もし、神秘主義というものが、わたしたちの知識の届かない領域(死後の世界、霊界、神など)に関する断定であるならば・・・
というわたしの前回の想定は、結局、あたっているのではないでしょうか。


(2)信仰者と神秘主義者

自分で神秘体験できる訓練をせずしてそれは無いと言えば それは空論になります・・・
親鸞のような信仰者は、自分の念仏往生の意見が純粋に信仰によるものであることを深く自覚しており、念仏すれば往生できるかどうかについて「知っている」などとは主張しませんでした。(「言の葉(9)」参照)

ところが、神秘主義者は、信仰者と違って、わたしたちが知覚体験できないことがらについて、神に特別に与えられたものとして、あるいは、修行の結果として特殊な能力を持っているのだから、あくまでも「体験できる」「知っている」と思い込んでいます。

親鸞のような無知の自覚をもつ信仰者と違って、すべての神秘主義者が、どこか、うさんくさいのはこのためだと思われます。