佐倉哲エッセイ集

日本と世界に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


鳥居 孝夫さんより

00年5月16日



 佐倉哲さん、はじめまして。

 鳥居と申します。地方国立大学工学部で教官をしております。

 ふとしたことで佐倉さんのホームページを拝見しまして、その博学さと真摯な態度に感銘を受けました。特に、佐倉さんと来訪者と意見のやりとりは大変楽しく拝見しております。

 私も日頃から考えていたこと、佐倉さんのホームページを見て思ったことなどありますので、ここで一つお便りしてみようと筆(キーボード?)を取りました。

[キリスト教について]

 キリスト教徒の言動などを見ていて、思うことが一つあります。神に対して謙虚な人は、人に対しては傲慢なのではないか、と。

 私の娘の幼稚園はたまたまキリスト教系でして、食事の時に娘が突然「今日の食事がいただけることを天のお父様に感謝します」みたいなことを言い出して、びっくりすることがあります。キリスト教ではよくある食事前のお祈りなのでしょう。

 しかし、この食事を作ったのは家内です。その材料は農家や漁師の人たちの努力によって得られ、様々な流通関係者の手によって私たちの家庭に届けられます。また、その食材を買うためのお金は私が働いて得たものです。つまり、私たちの日々の生活は様々な人の活動によって支えられているわけです。神に感謝するよりも、人に感謝すべきではないでしょうか。

 三浦綾子は「旧約聖書入門(光文社文庫)」のなかで、空には無数の星があり、それらが一つの法則にしたがって運行している(これも造物主のなせる技)、それに比べたら月に行ったと言っても大きな顔は出来ない、と言うようなことを書いています。

 しかしながら、人類を月に送ったのはもちろんのこと、三浦女史が言及している宇宙の星々の運行(さらに銀河の構造)を解き明かしたのは人間(科学者たち)です。神も聖書も何も教えてくれず、何の手助けもしてくれません。このことを女史はどう考えているのでしょうか?。何もしてくれない神や聖書を持ち出して、何かをなし得た人間を不当に低く評価する、私には非常に傲慢なことのように思えます。


[福岡正信氏の自然農法について]

 佐倉さんは福岡正信氏の自然農法について感銘を受けているようですが、私は素直に感心することができません。いくつのも疑問があるのです。

(1) 「何もしない」と言うが、いろいろやっている。 

クローバーは緑肥と言って、昔から使われているりっぱな肥料です。また、田圃に水をはっていますが、これも昔からやられていることで、除草の効果があります。それに何より、水田そのものが昔から長い年月をかけて作られた稲作に適した稲作のための土地です。 本当に何もしないと言うのならば、普通の地面で、種まきと収穫以外何もせず、雑草が生えるまま、水もお天気まかせにすべきではないでしょうか。

(2) 米作・麦作以外ではどうか。

 ここでは米と麦の例が紹介されていますが、米や麦は種まき(田植え)の時と収穫の時以外は比較的手間のかからない作物です。果樹・園芸など、手間のかかる農作物は他にたくさんあります。氏は、米や麦以外の作物については何と言っているのでしょうか?。

(3) 単に恵まれた環境でやっているだけではないか。

 氏は、温暖で肥沃な瀬戸内で農業をやっているようです。これが、例えば寒冷でやせた北海道の原野でも同じようにできるでしょうか。

 世界を見渡せば、何もせずに収穫が期待できる恵まれた環境は多くありません。多くの農民は過酷な環境で、不断の努力(あるいは農業技術の進歩)により毎日の糧を得ていると思います。例えば、東北地方ではたびたび冷夏に襲われるため、寒さに強いように品種改良を行ったり、水のはりかたに工夫しています。瀬戸内海沿岸では降雨が少ないため、昔からため池などが作られています(氏の米作りも田圃に水をはっているようですから、こうした水利施設を利用していることと思います)。

 結局、氏は、自然というもの、科学というものを誤解しているのではないでしょうか?

 自然の恵みとは言っても、人間は努力なしにはそれらを受け取ることができません。現在私たちが食べている農作物のほとんどは野生のものではなく、長年品種改良を重ねて来たものです。日照り、水害、冷害、病害虫などの自然の脅威とも昔から戦ってきました。時には大規模な不作によってたくさんの餓死者を出しました。日本でも、不作のために子供を身売りするという話は、そう昔のことではありません。世界を見渡せば、今も慢性的な食糧不足に苦しんでいる国はたくさんあります。

 氏は、このような現実をどうとらえているのでしょうか?。私には、氏の自然観は現実感覚に乏しいおとぎ話としか思えません。

鳥居
PXL07722@nifty.ne.jp




作者より鳥居さんへ

00年5月19日


1.キリスト教について

何もしてくれない神や聖書を持ち出して、何かをなし得た人間を不当に低く評価する、私には非常に傲慢なことのように思えます。

同感です。しかも、神が存在するかどうかは定かではないわけです。


2.福岡正信氏の自然農法について

(1)「何もしない」と言うが、いろいろやっている 

そのとおりですが、できるだけ「なにもしない」ことを理想としておられるのでしょう。

普通の考え方ですと、ああしたらいいんじゃないか、こうしたらいいんじゃないか、といって、ありったけの技術を寄せ集めた農法こそ、近代農法であり、最高の農法だと思っているのですが、それでは忙しくなるばかりでしょう。

私は、それとは逆なんです。普通言われている農業技術を一つ一つ否定していく。一つ一つ削っていって、本当にやらなきゃいけないものは、どれだけか、という方向でやっていけば、百姓も楽になるだろうと、楽農、惰農をめざしました。

(『わら一本の革命』、春秋社)

ふつう科学者は、「ああするとよい、こうするとよい」という方向で研究を進める。その結果、農業も例外ではなく、新しく費用とか労力のかかる技術や農薬・肥料を投入することになる。私はといえば、「一切無用」の立場から、「ああしなくてもよい、こうしなくてもよい」とムダな技術、費用と労力を切り捨ててきた。それを三十余年積み重ねてきたら、最後は、種を蒔いて、藁をふるだけになってしまったのである

(『無3:自然農法』、春秋社)

福岡氏の一日の平均労働時間は約2時間だそうで、それで5人の家族が養えるといいます。現代の日本の農家の平均時間はどのくらいなのでしょうか。わたしは、農家であった祖父が、バケーションもなく、休日もなく、朝から晩まで働き続け、それでも貧しい生活を続けていたことを目にしていますから、農事の一日の平均労働時間が2時間であるというのは、注目すべき結果であると思われます。

「額に汗して勤労するなんてことは一番愚劣なこと」(自然がただでやってくれることをわざわざ人間が苦労してやることはない)という彼の思想は、一生懸命働く勤労努力そのものを高く評価してきたわたしたちの文明のへの正当な挑戦だと思います。 わたしが、なによりも、福岡氏の考えに引かれるのはこのところです。


(2)米作・麦作以外ではどうか

いろいろな果樹や野菜もやっておられます。『無3 自然農法』(春秋社)には、みかん、びわ、もも、大根、赤カブ、ごぼう、しゃくし菜、かんぴょう、南瓜などの写真が載せられています。第四章の「自然農法の実際」では、大豆、小豆、秋蕎麦、里芋、インゲン、トウモロコシ、落花生、しょうが、栗、ナガイモ、ブロッコリー、マクワ瓜、ネギ、トマト、茄子、アスパラ、ピーマン、白菜、イチゴ、その他の自然農法の輪作体系が述べられています。

混植は福岡式自然農法において重要な部分を占めているようです。

総合的な視点に立って造成された自然農園には、当然、果樹、野菜、米麦などが、互いに良好な有機的関連を保ちながら栽培されなければならない。・・・果樹は、山林の木や、下草と無縁ではない。密接な結びつきのもとにはじめて健全な成長を遂げる。畑の野菜を自然に任せてみると、一見無秩序に見えて、連作の障害、忌避、病虫害の制約、地力の回復などの問題を自然に解決し、克服しながら、みごとに成育しているものである。

・・・野菜は一般に虚弱な作物で作りにくいと考えられやすいが、極端に品種改良されて弱くなった胡瓜、スイカ、トマト等数種のものを除けば、予想以上に強い作物で、粗放栽培にも耐えうるものである。冬季の十字科野菜などは、雑草発生よりひと足早く播けば強大な発育をして雑草を圧倒してしまうものである。また、深層に根を伸ばして、土壌改良のうえでもきわめて効果が高いものがある。豆科緑肥が夏季の雑草を防止し、土壌を肥沃化せしめることは言うまでもない。・・・多くの野菜が、無作為な自然輪作といえる野草化栽培をすることによって、ほとんど無肥料でゆけることは、すでに実証済みである。

果樹は永年作であり、連続栽培しているから、当然連作の障害が出てくるのである。この障害を自然に解消し、果樹の寿命をのばす目的をもっているのが保護林であり、果樹の草生栽培である。混植された肥料木と果樹、果樹と下草の関係は、ちょうど一種の立体的輪作関係とも言える。

果樹の下に野菜を作ると、重要害虫が減る傾向がある。果樹と野菜の間には共通の病虫害もあれば、異種の病虫害もある。またこれら病虫害の天敵類も各種各様で、発生時期も異なる。ということは、果樹と野菜、害虫及び益虫が適当にバランスを保っていれば、病虫害の実害が妨げることを指している。また、肥料木や破風林を植えたり、常緑樹と落葉果樹を混植することで、病虫害の被害が軽減できることがある。その理由も同じことであろう。

(同書、217〜228頁)

混植、特に「果樹の下に野菜を作る」方法は、無農薬・無肥料の農法を可能にした、福岡氏のもっともユニークな発見ではないでしょうか。


(3)単に恵まれた環境でやっているだけではないか

だれでも、はじめて福岡氏の話を聞くと、そのように思われるのですが、福岡氏の提唱する自然農法のもっともおどろくべき結果の一つは砂漠の緑化なのです。

砂漠の中の自然農園を作るなど、ドンキホーテの仕事だとか、砂漠の中に、緑のオアシスを夢見ることは、それこそ蜃気楼と思われるようだが、私には、砂漠の中でこそ、自然農法の手法が生かされて砂漠を桃源郷にかえることができると確信されるのである。・・・科学的には不可能に見えても、緑の哲学の見地からすれば、自然が自然に還元するというのが命題である。

しかし、人知によって、人口灌漑によってオアシスを造ろうとするのは、それこそ焼け石に水で、むしろアルカリ化せしめて、自然を死滅させるだけである。・・・砂漠の緑化は、自然農法の手法で、無知・無為・自然が、自然に、おのずから復活するのを待つしかないのである。人間はただ一度死滅した自然復活のキッカケを作っておくだけでよい。

(同書、406〜407頁)

というわけで、できるだけ自然の力を利用して、人間の労働は最小限にする(楽をする)、という自然農法の哲学が応用されます。その一つが、「植物灌漑法」とかれが名付ける方法です。

砂漠の中には河もあり、地下水もあるところが多い。まず、河川の堤防から緑化して、次第に内陸部の緑化を図る。・・・これは、通常施工されている河川のコンクリートによる灌漑水路化によらず、植物の連続体によって水を誘導し、保水力を高めることによって、無灌漑農業を実現しようというものである。

水はおのずから低きにつき、植物の根によって運ばれ、乾燥地に向かって浸透していく。河川の水の中にはヨシやガマが茂り、ダン竹や女竹がしがらみとなって堤防を護り、ネコ柳や川柳やハンノキなどが風を防ぎ、水をまねいているものである。したがって、河川の付近から始めて、各種各様の植物を植えておけば、植物の根によって、地下水が浸透していって、次第に鎮守の森が形成されるはずである。これを私は植物灌漑法(プラント・イリゲイション)と呼んでいる。

たとえば、アカシヤの木を二十メートル間隔で植えておけば、五年で樹高が約十メートルになるが、根は十メートル四方に広がり、水が浸潤して、土地の肥沃化・腐食の蓄積とともに保水力は高まる。地下水の移動もきわめて遅いとはいえ、徐々に、隣の木から木へと転移していって、水運搬の役目を果たしてくれる。

砂漠緑化の一手段として、この原理を応用すれば、砂漠の中の川沿いに、まず森を造ることから始める。さらに、川に斜向して、灌漑水路の代りに自然林のベルトを造って、水路の代りを果たさしめるのである。その上に、この緑化帯を中心に果樹や野菜も植えて、自然農園とし、自然生態系そのままの自然農園を造ることによって、同時に砂漠の緑化を図ろうというのである。

(同書、407〜408頁)

「河川のコンクリートによる灌漑水路化」の代りに「植物灌漑法」に着目するところに、できるだけ自然にやらせるかれの思想が現れています。(日本シルクロード倶楽部の砂漠の緑化事業、参照。)

「寒冷でやせた北海道の原野」の例はわたしは知りませんが、インターネット上で探してみると、長野や山梨などでは行われているようです。しかし、北海道の原野だって自然の木々や草花が、人知なしに育っているとすれば、当然、北海道の自然にあった自然農法がありうるだろうと思われます。


(4)現実感覚に乏しいおとぎ話?

福岡氏への批判はいろいろ考えられますが、「現実感覚に乏しいおとぎ話」という批判は当たらないと思います。第一に、福岡氏は、もともと、植物病理学の専門で、横浜税関の植物検査課の研究室で「米国と日本のミカン類の幹枝果実を腐らす樹脂病の研究に没頭しており」、後には、高知農事試験場で「近代農法を指導し」ていた、という近代農法のバックグラウンドを持った人です(『わら一本の革命』より)。それに、かれの新しい農法は、なんといっても、かれ自身が50年間、実際に実践してきた結果です。「おとぎ話」という批判はまったくあたらないと思います。


(5)自然の力

わたしは、福岡氏ほど、自然の力を信じたり、科学の力を否定するものではありませんが、福岡氏の主張の中には、耳を傾けるべきものがあると思います。たしかに、野生の木々や草花は、だれも、耕しもせず、肥料もやらず、除草もせず、殺虫剤も撒かないのに、力強く生き続けています。自然はそれが育つためには人知を必要としていないようです。福岡氏の農法は、人工的にひ弱にさせられた野菜や果樹を野生化させ、その自然に内包する力強さによってみずから育つように、ただそのキッカケをつくることだけを農事の本質とし、それによって、百姓ががもっともっと楽をすることができるように工夫するところあると思います。仕事の時間を激減させ、のんびり遊ぶ時間を増やす。「そんなことができるわけがない」という常識を覆して、それを実際にやってしまっただけでなく、誰にでもできるというのですから、ちょっとその話を詳しく聞いてみる価値があると思います。


おたより、ありがとうございました。