佐倉哲エッセイ集

日本と世界に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


福原和明さんより

99年9月6日

日の丸・君が代に反対する理由5

(1)「『日の丸』は日本という国家のシンボルという事実」の正体

まさに、日の丸が幕末に最初に使用されたのは、おっしゃられるように、「航海上の必要性から他国船との区別の必要が生じてはじめて用いられた」のです。日の丸は日本という国家のシンボルなのです。(佐倉さんより)

「日の丸」は幕府が船舶旗・軍旗として使用していたのは事実です。次に開国後、外国船との区別に使われたのは事実です。軍国主義の台頭により、侵略の現場で軍旗として、または国民統制の小道具として「日本の旗」と称して使用されたのは事実です。敗戦後、主権が天皇から国民に変わったにもかかわらず、特に文部省の根強い「日の丸」(「君が代」も)の復活運動によって、現在にいたるまで国旗として使用されているのも事実です。これらの事実は、「日の丸」を国旗としたい何者かによって、「日の丸」を日本の国旗として規定してきたという事実です。先日、自自公などの反動議員の賛成によって「国旗・国歌法」が成立した事実も、こういった類いの事実です。

 よく考えれば誰でも分かることですが、「『日の丸』は日本という国家のシンボルという事実」など存在しません。「日の丸」自体はただの図柄です。その図柄自体にどういう意味付けをするかは、その人の立場によって違ってきます。事実としてあるのは、「日の丸」という図柄を何者かによって国のシンボルとして仕立て上げたということです。これが、「『日の丸』は日本という国家のシンボルという事実」の正体です。

 例えば、肉親や親しい人であっても、その人が死ねばニ度と会うことがないというのは厳然とした事実です。これがどれほど身にしみて嫌なことであろうと、受け入れなければなりません。嫌だろうがなんだろうが自ずと受け入れなければならないこと。受け入れることが必然的であること。これが「事実」です。それに対して、「『日の丸』は日本という国家のシンボルという事実」というものは、「日の丸」という図柄をそのように意味付けた者による主張でしかないので、立場や考えの違う者にとってその主張を受け入れる必要などはありません。「『日の丸』を国旗としたい何者かによって、『日の丸』を日本の国旗として規定してきたという事実」は、厳然と存在するので私は受け入れなければなりません。しかし、「『日の丸』は日本という国家のシンボル」という「日の丸」=国旗という考えに対する信奉者の主張を私は受け入れる必要などないのです。

 侵略・オリンピックなどに「日の丸」を使用してきたのは、「『日の丸』は日本という国家のシンボルという事実」が前提となっているわけではなく、「日の丸」を使用したい者の意図がその前提となっているのです。

(2)誰にとっての事実か

わたしは、日の丸が国家のシンボルであることはあまりにも単純で明白な事実だとおもいますから・・・(佐倉さんより)

 誰にとっての「あまりにも単純で明白な」事実でしょうか。これは「日の丸」に対して愛着心を持つ「日の丸」信奉者の人々にとってだけの事実です。その人々の多くは反動思想の保持者です。なぜなら、むかしの軍国主義が使用したえげつない図柄をわざわざ引っ張り出してきて、現在も国旗であるとしているからです。戦前と主権者が変わっているのに旧国家体制の旗を積極的に利用しようとする者は、明らかに反動思想に毒されています。

 ナチスの党旗からドイツ国旗となったハーケンクロイツ(日独伊防共協定締結時の写真をご参照下さい)はなぜ廃止されたのでしょうか。それは、戦に破れて、主権者がヒトラーから国民に変わったからです。国家体制が革新されたのです。それに対して日本では、アメリカの占領政策の意図の下で天皇が生き残り、国家体制が完全に革新されたわけではなかったのです。それゆえ、現在でも反動思想がでかい面をして生き残る結果となりました。

「日の丸」を国のシンボルとして認めない自由。「君が代」を斉唱しない自由が私にはあります。これについては誰に文句をいわれる筋合いはありません。そして私は、「日の丸」について自分が知った事実に基づいて吐瀉物・糞以上に嫌悪し、「日の丸」を国旗とすることを拒絶しているのです。

 それに対して、「日の丸」愛好者達(反動思想を持つ人々)は「日の丸」が国のシンボルであることは事実とでっちあげます。私にとっての「日の丸」という図柄と、愛好者達(反動思想の保持者)の「日の丸」という図柄は、その立場上まるで意味が違っているので、佐倉さんと私とでは「日の丸」に対して絶対に意見は一致しないのです。佐倉さんが「日の丸」の愛好者でも私に文句をいう権利などありませんが、同時に私が「日の丸」が嫌いでも、左翼だとか異常だとか規定される筋合いはありません。

「日の丸」が国旗であるのは事実ではなくて、それはあくまでも佐倉さんの立場による「日の丸」という図柄の解釈に過ぎないということです。

(3)なにを根拠に、日の丸を「侵略のシンボル」と主張しているか

日の丸は国家のシンボルではなく侵略のシンボルである、と強弁されるのはなぜなのでしょうか。(佐倉さんより)

 先にも述べたように、「『日の丸』は日本という国家のシンボルという事実」などは存在しません。「日の丸」が何のシンボルになるかはその人の立場によります。 なにを根拠に、私が「日の丸」を「侵略のシンボル」と主張しているか。これはくり返し述べています。「日の丸」の下に侵略された側から見たら「日の丸」は侵略のシンボルであるというあまりにも単純明解な事実です。

 何度同じ説明をすれば良いのでしょう。佐倉さんの「『日の丸』や『君が代』に反対する人があることは知っていますが、何故かれらは反対するのか、その論理的根拠をわたしはくわしく調べたわけではありませんので、彼らの立場に関するわたしの理解は、単にわたしの受けた印象ぐらいのものでしかありません」との文章に応えて、私の考えを説明しているのに、本当に私の考えを聞かれる気がおありなんでしょうか。佐倉さんの「わたしの受けた印象」に固執して、はなから左翼が因縁をつけてきたぐらいにしか思っておられないからくり返しこんなことを書かれるのです。

 私は日本軍によって侵略された側に立ちます。これは「日の丸」の下に殺された人々の気持ちを継承するということです。その気持ちに添えば、まるで何ごともなかったように「日の丸」を翻していることは絶対に許せないことです。

(4)「日の丸」に反対することは事実に基づいている

事実に基づいていないわけだから、それはある特殊な政治思想に基づいているに違いない。(佐倉さんより)

 それは佐倉さんの立場(反動思想)からの見方であって、「日の丸」の下に侵略された側から見たら「日の丸」は侵略のシンボルであるというのはまぎれもない事実だということです。そこに特殊な政治思想など介入する余地がありますか?

 たとえば、これは侵略中によくあったことですが、「日の丸」を振りかざした軍隊が自分の村に侵攻してきて、腕に「日の丸」をつけた兵士によって、まず自分が銃でうたれ、自分の子どもが殺され、妻が強姦された上に腹を切り裂かれて殺されたとします。たまたま自分は後に蘇生して生き残った。そして「日の丸」を見る度に激しい嫌悪感・怒り・悲しみが込み上げてきたとします。この感情のどこにマルクス主義が介入する余地があるのか、御説明いただきたいと思います。

 また、「日の丸」に反感を持つアジアの人々に対して、佐倉さんは、「事実に基づいていないわけだから、それはある特殊な政治思想に基づいているに違いない」と言うことができますか? できるかできないか。お答え頂きたいと思います。

(5)本当にあきらかになったこと

そして、わたしの想像が的を得ていたことは、今回のお便りも含めて、福原さんとのやり取りが回を追うごとに、ますますあきらかになっています。福原さんがこれらのなかで述べられている政治思想というものは、福原さんの好き嫌いに関わらず、現代ではめずらしい、マルクス・レーニン主義、いわゆる「左翼思想」として世に知られているもの、とその内容も概念もまったく同一のものです。(佐倉さんより)

 結局「日の丸」こだわられる佐倉さんは、「日の丸」の信奉者達と同様に反動思想に毒されているのです。反動思想の保持者からすれば、自分の立場からごく普通の主張をしている私の意見も、左翼思想に思えるのも納得のいくことです。あきらかになったのは、私の主張が左翼思想ということではなく、佐倉さんが反動思想に毒されているということです。

 体制側に対抗する主張をすべからく左翼とするのは、「全共闘」に挫折した「おやじ」世代の嫉妬に満ちた偏見に他なりません。


主張されていることがらが、何から何まで、そっくりそのままマルクス・レーニン主義なのですから、たまたま同じ内容の政治的思想を福原さんが独自に思いつかれたとは考えられません。(佐倉さんより)

 あたりまえです。私の考えと似た考えは、多くの人々が主張してきたことでしょう。佐倉さんの「聖書の間違い」が佐倉さんだけが独自に思いつかれたのではないのと一緒です(ただし、佐倉さんの手法は私にとって分かりやすい点が、他のものに比ぺて優れていると思います)。私の主張は、佐倉さんのように反動思想の立場の人から見られたら、マルクスと私の区別がつかずに「そっくりそのままマルクス・レーニン主義」なのでしょうが、本物のマルキスト(共産党の幹部など)から見た私の主張はまた別のものになることでしょう。なぜなら、何度も書きますが、私の思想の出発点は自分自身のおかれた境遇や体験であって、はじめにマルクスありきではないからです。マルクスの主張のみが自分の理想の社会(実際的な主権在民・民主主義)を実現するものなどとは思っておりません。


  たとえば、「資本主義を突き詰めて考えていくと、最後には他国を侵略するしか手がない」というのは、よく知られたマルクス・レーニン主義の代表的な考え方であり・・ ・ 福原さんはおそらくこの考え方をかつてどこかで読まれた(そして、もちろんこれも、もしかしたら、自分で独自に思いついた考えだと主張される)のでしょうが、それは、実は、『ソ連邦共産党綱領』にも書かれていることがらなのです。(佐倉さんより)

  資本主義が最後にとる手段というのは侵略であるということは、左翼の文献や『ソ連邦共産党綱領』(私は見たことがありません)などを読まずとも、歴史的事実によって簡単に判明することです。天皇の軍隊の本当の目的は、他国を植民地にして金を儲けることでした。帝国主義も軍国主義もその根底にあるのは全く同じくえげつない金もうけ主義(資本主義)です。米国ではニューディール政策以降、帝国主義政策を現在にいたるまで進行中です。

  見解が『ソ連邦共産党綱領』に書かれていることと同じだとして、それが一体なんなのでしょう。私は、歴史的事実に基づいた当たり前の主張しているのです。こんな当たり前の主張をしたところで、なぜ左翼呼ばわりされなければならないのでしょう か。

 ソビエトが滅んだからといって、その主張の全てが間違いであったとは言えないと 思います。『ソ連邦共産党綱領』の中にも、正しい認識はあったということです。


(6)本当に異常なのはどっちか

  異常なのは、国家の過去の不当な行為(侵略、人種差別、等々)に反対するために、日の丸は国家のシンボルではない、日の丸は侵略のシンボルだ、などと主張している、日本という島国のなかにのみ存在する、世にも奇妙な日の丸反対運動です。(佐倉さんより)

「日本という島国のなかにのみ存在する、世にも奇妙な」存在は天皇制をさしおいて語るべきものはありません。天皇制は現代では世界でも珍しい野蛮な制度です。「日の丸・君が代」はこの天皇制のおまけとして生き残ったのです。「日の丸」を国威の象徴や国家権力の象徴として利用して、他国を侵略したりマイノリティーを抑圧してきた奴らがいます。こいつらにとって「日の丸」が国のシンボルであるというのは事実でしょうが、やられた側から見ると「日の丸」は忌わしきシンボルとなる事実。これが分からない人は自分が同じ立場にならない限り、やられた側の感情を決して理解することはないのでしょう。想像することすらできないんでしょうね。

  なにがなんでも「日の丸」を国のシンボルとしたい人は、現在では反動思想を持つ一部の「日の丸」信奉者でしかありません。「日の丸」に賛成している人の全部が、何がなんでも国旗が「日の丸」でなければならないとは考えてはいないでしょう。すでに既成事実があるという消極的な理由で賛成している人も多いと思われます。

 航海上で必要なのは「船舶旗」・オリンピックで必要なのは「選手旗」です。これらが「日の丸」である必然性はどこにもありません。それをなにがなんでも「日の丸」が国のシンボルであることは事実と主張して「日の丸」を使用することは、ありもしない事実を根拠にしているわけですので、これは「日の丸」信仰に基づく行動です。

 昔の軍国主義が使用していおり、本来であれば天皇とともに消え去るべきだった「日の丸」を、わざわざ引っ張り出してきて現在まで使用している節操の無さ・厚顔無恥さ・だらしなさ。こっちの方がどう考えても異常なことでしょう。法制化に賛成した反動議員の奴らの頭はマトモじゃありません。「日の丸」が果たしてきた歴史的役割をまるでなかったことにして、ぬけぬけと「日の丸」は国のシンボルというのが事実ということができるのは、自分の考えの異常に対しての病識がないためです。


日本における、日の丸反対運動がそのように奇妙なものとなったのは、国家そのものを消滅すべき悪と見る特殊な政治思想によって、日の丸反対運動がいままで牛耳られてきたからです。 (佐倉さんより)

 国家によって虐げられている人は、現状で我慢することを美徳とせよとでもお思いですか。自分達を虐げてくる国家など、虐げられる側からすれば消滅することを願うのは当たり前のことでしょう。そして、虐げてくる国家が利用する「日の丸・君が代」を嫌悪し反対するのは虐げられる側にとっては当たり前のことです。


日本は国家として過去の侵略戦争の後始末をしていないのだから、そのような不当な行為を弾劾するために、日本が国家として過去の侵略戦争の後始末ををするまで、日本の国家のシンボルである日の丸を焼くなり、日の丸を引きずり下ろすなりして、抗議しようではないか。(佐倉さんより)

 日本人のできる「日の丸」反対運動の方法は現在では明確になりました。次の選挙で、「国旗・国歌法」成立に賛成した議員以外に投票し、「国旗・国歌法」に賛成したドバカな議員達を落選させることです。 反動思想の立場からすると、「日の丸」を国旗とすることについて反対することが、その人の立場に基づくものであることが理解できないので、「日の丸」反対と聞くと特殊な思想による政治運動だと考えるのです。これは、自分達が「日の丸」を使用していることが特殊な思想(反動思想)による政治運動であることの裏返しに過ぎないことです。


日の丸反対運動は、かつての安保反対運動と同じように、空中分解してしまうことでしょう。(佐倉さんより)

 安保反対闘争が単に空中分解したとは思えません。もし、安保反対闘争がなかったら、日米関係の状態は今よりも確実に悪くなっていたでしょう。アメリカの奴隷となって、アメリカに逆らう国々の人々を私達の世代が直接殺しに出かけていたかも知れません。


(7)現体制で恩恵を受けている者だけの「平等」

複雑な社会というものを、単純に「抑圧する側=金持ち=悪人」と「抑圧される側=貧者=善人」にわけて考えなければならない思考方法に取り憑かれてしまっている福原さん・・・(佐倉さんより)

 私は「単純に「抑圧する側=金持ち=悪人」と「抑圧される側=貧者=善人」にわけて考えなければならない思考方法に取り憑かれて」いるわけではありません。事実として、世の中には抑圧する側とされる側が存在していると言っているのです。支配関係が分かりづらくなっている現代社会が複雑だとして目を暗ませたとしても、現実に抑圧する側とされる側は存在します。もし、抑圧する側とされる側がないのだとすれば、なぜ実際はこんなにも不平等なのか(天皇からホームレスまでの「階級」がある事実。まさか天皇とホームレスの人々とが平等だとはいえますまい)。 資本主義社会では、資本家が労働者を搾取して成り立つという原理は変わらないので、抑圧する側と抑圧される側は絶対になくならないのです。 この資本主義の現体制から恩恵を受け、現状に満足している者だけが、抑圧する側と抑圧される側はないと平気で言い放つのでしょう。


わたしの「日の丸」「君が代」に関する考えは、「その本質において特高警察と同じ」にされてしまうわけですが・・・(佐倉さんより)

 念のために申しておきますが、佐倉さんが、私の主張は少数なので左翼思想だとされたことに対して、「その本質において特高警察と同じ」と述べたのであって、佐倉さんの「日の丸・君が代」に関するお考えに対して述べたのではありません。

(8)日本における真の民主主義の確立は天皇制の廃止をもってはじまる

まあ、いろいろな相違はあるといえども、日本をどのような国にしたいか、という本質的な問題点において、実は、わたしは、福原さんの考えとわたしの考えはそれほど懸け離れているとは思っていません。まず何よりも日本における民主主義(あくまでも日本の民衆が主体となる政治体制)の確立を願うということです・・・わたしは、まず何よりも、日本人の、日本人による、日本人のための憲法が必要だと考えます。(佐倉さんより)

 私はまず何よりも、天皇制の廃止が日本における民主主義確立の第一歩と考えます。これは現憲法下でもできることです。天皇の存在は国民の総意に基づくものであって、総意が得られなくなれば「天皇制廃止法」を成立させて天皇制を廃止できるのです。「天皇制廃止法」は、「ガイドライン関連法(戦争の放棄違反)」や「国旗・国歌法(思想・信条の自由違反)」等と違って合憲です。日本国民の何割かは天皇制のインチキに気がついているので、もはや天皇の存在は国民の総意に基づくものとはいえません。天皇制がなくなれば、反動勢力はその依って立つところを失い、彼らの担ぎ出している「日の丸・君が代」も「国旗・国歌」とする意義が失われます。 天皇制は民衆にとっては忌わしい伝統です。天皇という特別な身分を担ぎ上げている制度がなくならない限り、日本に真の民主主義は確立しないのです。天皇制を廃止した上で成立させる新憲法でないと何の意味もないと思います。 民主主義は特別な身分を否定します。民主主義は民衆が様々な制約を被る戦争を否定します。民主主義は存在の多様性を認めます。その他、まだまだ考察すべき点は多いと思われますが、これらの民主主義の理念に沿った日本人による憲法をぜひ成立させるために、天皇制を廃止しなければならないと考えます。



作者より福原和明さんへ

99年9月11日


「日の丸、君が代」に関してわたしの感じていることの主要な事柄はすべていままでのやり取りの中で語っており、これ以上この問題に関して付け足すものは(いまのところ)ありません。


さあ! では、わたしたちはここで別れよう! しかし、わたしは是非ともそなたに再開したいと思う。あそこの登り道はわたしの洞窟へと続いている。今夜、そこで、そなたをわたしの親愛な客人としてもてなそう!

(ニーチェ、吉沢伝三郎訳、『このようにツァラトゥストラは語った(下)』、講談社文庫、225頁)

おたより、ありがとうございました。