佐倉哲エッセイ集

日本と世界に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


Sunanezumiさんより

99年8月18日

君が代・日の丸法制化について(続き)

Sunanezumiです。お返事ありがとうございます。

佐倉さんの回答は私の盲点を突いていて、とても勉強になります。それを私なりに消化しつつ、佐倉さんの更なる指摘を期待して、先日の話の続きを述べてみます。

「日本国憲法は、米国に押しつけられたものだ。だからいつかは日本人の手で、新しい憲法を作らなければならない」という考えがあります。確かに由来としてはそうでしょう。内容としても、明らかに外来思想です。多くの人が違和感を感じるのは当然です。でも、まさにそこに、この憲法の存在価値もあるのではないでしょうか。外来思想というものは、伝統的保守的傾向に執拗に「否」を投げかけます。そうやって、無反省になりがちなものを反省へと導きます。日本国憲法は、日本人の心に突きたてられた刺なのです。

私の考え違いでなければ、法律の本来の目的は、規制することにあります。理想を示すことではありません。その意味で、現行憲法は立派にその役目を果たしているようです。

憲法第九条と自衛隊との矛盾もしばしば指摘されます。「第九条はもはや形骸化している。このような状態を放置しては、憲法の権威も失われてしまう。ここは改憲して仕切りなおすべきだ。そうしてこそ、憲法を尊重しようという国民の意識も高まる。」しかし現状は、憲法解釈ですませられる限界まで来ています。「これ以上のことは、改憲しない限りできない。」とすれば、第九条はやはり立派に歯止めとして機能しているわけです。

ちなみに私は徴兵制のない日本が好きです。別に高い理想からではありません。私は集団生活が苦手です。私の魂はそんな拘束された生活の中で、きっとしおれ切ってしまうでしょう。ですから、それだけの理由でも、私は現行日本国憲法が好きです。

私は集団生活が苦手です。というか、ひとと同じことをするのが嫌いです。「私はいまひとと同じことをしている」と感じるのが嫌やです。ですから、同じ旗を仰いだり、声をそろえて同じ歌を歌ったりするのも嫌やです。私が日の丸・君が代を厭う本音は、実はこんなささやかなところにあります。決して、君が代・日の丸が<直ちに>軍国主義的日本を反映しているからではありません。それを好んで用いる人たちに、古き良き(?)日本帝国の残照を見るからです。私は日の丸を掲げ君が代を歌うとき、彼らに与していると感じるのが嫌なのです。

国歌・国旗は、主として<対外的>な日本の象徴なのでしょうか。しかし、今回の法制化の前後で<対外的>位置づけが変わったとは思えません。それはむしろ<対内的>なものです。そして結局の目的は、日本国民の統制です。日本国民としての一致を!・・・・私の嫌いなことです。私にとって、ごく身近な人以外は、日本の人であれブラジルの人であれ、同等に疎遠です。

佐倉さんは「独立国家としての日本の存在意義」がより根本的な問題だ、と書いておられましたね。確かにきっと、そのとおりです。そしてその「国を成したい」という思いに、私は反発を感じるのです。国というものは最終的にはなくしてもいいものだと思います。世界を統一する超国家を作ればいいというのではありません。支配する者のない状態が一番いいのだと思います。もちろんそれは理想にすぎません。でも「国家とはなくてもいいものだ」という意識は常に持っていたいのです。たとえどっぷりと、普段の日常生活に納まっているとしても・・・・。(共産主義の悲劇は、支配者のない状態を作ろうとして、逆に悪質な支配者を作り出してしまったことにあります。でもそれは、理想が間違っていたことを意味するのではないはずです。)

以上、自分では筋の通ったことを言っているつもりだったのですが、言葉を削っているうちに、なんだかちぐはぐになってしまいました。乱文お許しください。要するに、いろんな位相の思いがけっこう無反省に織り重なって、今回の君が代・日の丸法制化に疑念を投げかけているわけです。

以上です。それではお体に気をつけてください。

written by Sunanezumi



作者よりSunanezumiさんへ

99年8月28日


(1)おそかれはやかれ、日本人は自分たちの憲法を作るでしょう

「日本国憲法は、米国に押しつけられたものだ。だからいつかは日本人の手で、新しい憲法を作らなければならない」という考えがあります。・・・でも、まさにそこに、この憲法の存在価値もあるのではないでしょうか。・・・・

私は集団生活が苦手です。というか、ひとと同じことをするのが嫌いです。「私はいまひとと同じことをしている」と感じるのが嫌やです。

おそかれはやかれ、日本人はかならず日本人による日本人のための憲法を作るだろう、とわたしは思っています。それは、なによりも、「ひとと同じことをするのが嫌い」と言う、Sunanezumiさんのような人々がだんだん増えていくに違いないからです。自分の人生は、親や社会の通念が決めるのではなく自分自身が決めるのだ、という考えの人々が増えれば、自分たちの住む共同体をどのように運営するか(憲法・法律)を、お上(天皇、官僚、米国)に決めていただいて満足する人々よりは、自分たち自身で決めたいという考えの人々が増えるのは必然的だと思われるからです。


(2)人間の根本的欲求と政治的正当化

外来思想というものは、伝統的保守的傾向に執拗に「否」を投げかけます。そうやって、無反省になりがちなものを反省へと導きます。日本国憲法は、日本人の心に突きたてられた刺なのです。・・・・
自分の所属する共同体をどのように運営するかを決める規則(憲法)は、自分の所属する共同体の人々によってではなく、他の共同体の政治組織によって決めてもらう方が、「無反省になりがちなものを反省へと導」くので良い、などと本当に思っておられるのでしょうか。(ちょっと、信じられないのです。)米国の憲法は米国人によってではなく、他国(日本やロシアや中国など)の政府によって決めてもらうほうが、「無反省になりがちなものを反省へと導」くので、米国にとってより良いのでしょうか。わたしの住んでいる町の運営の仕方を決めるのは、わたしの住んでいる町の住民によってではなく、他の町の住民に決めてもらうほうが、本当に良いのでしょうか。わたしの家族の規則は、わたしの家族の者たちが決めるよりは、他の家族によって決めてもらったほうが良いのでしょうか。わたしの生き方は、他人に決めてもらったほうが良いのでしょうか。

勝手に推測してみるに、現憲法を変えるべきではないと思われているSunanezumiさんの本当の理由は、別のところ(たとえば、「護憲=平和」というような政治思想)にあって、「無反省になりがちなものを反省へと導」くなどというここにあげられている理由は後から付け加えられた正当化にすぎないように思えます。

どんなに現憲法を美化あるいは正当化しようと試みても、単純な歴史的事実は、自分の方が何が正しいかを知っていると思い込んでいる親が、自分の思うように子供の生き方を決めたがるように、ちょうどそのように、現憲法は米国が日本の国家としての在り方を一方的に決めつけたものにすぎません。しかし、自分の生き方は自分で決めたいという心情、あるいは、自分たちの住む共同体の運営方針はそこに住む自分たちで決めたいという心情は、「無反省になりがちなものを反省へと導」くなどというような次元の事柄より、もっともっと人間の根本的な欲求に属するものですから、どんな言い訳もそれを抑圧し続けることはできないでしょう。だから、おそかれはやかれ、日本人はかならず日本人による日本人のための憲法を作るだろう、とわたしは考えます。


(3)良いか悪いかを決める基準

外来思想というものは、伝統的保守的傾向に執拗に「否」を投げかけます。・・・まさにそこに、この憲法の存在価値もあるのではないでしょうか。
外来思想が必ずしも伝統的保守的傾向を否定するものではないだろうし、伝統的保守的傾向を否定することが必ずしも良いとは限らないでしょう。むしろ、良いものなら、どんなに旧いものでもそれを選ぶべきであり、悪いものなら、どんなに新しいものでもそれは拒絶すべきなのであって、そもそも、<保守対革新>という冷戦時代にしか通用のしない図式はもう通用しないのではないでしょうか。何が「革新」で何が「進歩」であるのか、それを現代の人々に認めさせることのできる説得力ある社会思想はどこにも見あたりませんし、おそらく、これからもけっして生まれることもないでしょう。なぜなら、どのような生き方をするのが良いかは、結局、それぞれ個人の価値観によって相違するように、どのように社会共同体を運営するのが良いかも、それぞれの共同体に住んでいる人々の価値観によって相違するものだからです。価値観の多様性は疑うことのできない事実であり、その点から言っても、やがて、日本人は、普遍的な価値観を信じる(だから他人に押し付けても平気な)画一主義的、独善主義的哲学に基づいた現憲法を捨て、各個人や各共同体の価値観(すなわち自由)を尊重する哲学に基づいた憲法を作るだろう、と考えざるを得ません。


(4)国家という必要悪

佐倉さんは「独立国家としての日本の存在意義」がより根本的な問題だ、と書いておられましたね。確かにきっと、そのとおりです。そしてその「国を成したい」という思いに、私は反発を感じるのです。国というものは最終的にはなくしてもいいものだと思います。

おっしゃる通り、国というのは、もし無くても済ませることができるなら、無いにこしたことはありません。国家というものは、歴史を見ても、また現実を見ても、個人や地域社会の自由勝手を規制する権力なのですから、あきらかに、悪です。しかし、残念ながら、単純に捨てることはできない悪です。

一般論を言えば、国家とくに近代国家という集団は人類に多大の厄災をもたらしており、国家というものが存在するに値するかどうか疑わしく、国家の廃絶は人類の理想と言えるが、現代社会においては、国家に所属しないと個人の存在が危うくなるのが実状であるから、いろいろ問題はあるにせよ、一応国家の存在を前提として話を進めよう。実際、日本列島に住む、今のところは日本人と呼ばれている人類の一部が日本という国家を失ったとすれば、他の国に吸収されてそのなかの少数民族として差別されるか、あるいは隔離されたリザーベーションに住むいわゆる未開民族のように、他の国家の、決して当てにならない善意に頼って保護されるか、あるいはかつてのユダヤ人のようにあちこち国家を邪魔にされながら渡り歩くか、あるいは消滅してしまうしかないわけで、アメリカ、ソ連、中国などの住民も一緒にその国家を捨ててくれるのでない限り、日本国家の放棄も問題にならないであろう。

(岸田秀「国家の物語と天皇制」より)

人間は一人ではもちろん生存を続けることはできないわけで、個体保存と種族保存のためには、共同体が必要となります。しかし、国家という次元の共同体が果たして人類の生存に必要かどうかはきわめて疑わしく、岸田氏の言うように「国家の廃絶は人類の理想」であろうと思います。たとえば、日本の歴史を見ても、縄文時代という国家のなかった時代に、人々ははるかに平和な生活をしていたようです。 しかしまた、国家を造った人々と国家を造らなかった人々が、何らかの理由で対立抗争をするようになると、国家を造らなかった人々は「いつでも戦えば負ける」(吉本隆明、『日本人は思想したか』)のも明白な歴史的事実で、それもまた、西欧の植民地主義や日本におけるアイヌの歴史などに示されています。したがって、岸田氏の言うように、「アメリカ、ソ連、中国などの住民も一緒にその国家を捨ててくれるのでない限り、日本国家の放棄も問題にならない」わけで、国家の悪を指摘することはもちろん当然のことですが、国家という悪を消滅しても個人存在を危うくしない具体的なプログラムを提示しないままに、軽々しく国家を無視して個人の自由の問題を語るわけにもいきません。国家は個人の自由を奪うことのできる悪魔ですが、同時に個人の存在と自由を守ることのできるはなはだ不完全な守護神でもあります。どちらか一方の事実に目を塞いでも、歴史が示すように、ろくな結果にはならないでしょう。

「独立国家としての日本の存在意義」とは、単に国家そのものの問題ではなく、その本質において個人の自由の問題です。それは、自分たちの住む共同体をいかに運営するかを、自分たちの意志とは無関係なところで決められることを、わたしたちは本当に心から許せるのか、という問題です。国家の独立は個人の存在や個人の自由と切り離すことはできません。


(5)尊王攘夷の間違いと醜い内ゲバ闘争

国歌・国旗は、主として<対外的>な日本の象徴なのでしょうか。しかし、今回の法制化の前後で<対外的>位置づけが変わったとは思えません。それはむしろ<対内的>なものです。
前回も指摘しましたが、法制化は、くだらない左翼の卒業式闘争に対する、くだらない右翼の反動にすぎません。そのことと、国旗や国歌が国家のシンボルである事実とは無関係です。国旗や国歌がくだらない左翼の政治闘争の道具として利用されるかぎり、右翼のくだらない反動も続くことでしょう。こんなくだらないことを、いつまでも続けるな、というのが、日の丸・君が代問題に対するわたしの立場です。日の丸・君が代の問題の背後にあるのは実は天皇制の問題であり、天皇制の問題なら、国家の政体の問題ですから、それは憲法の問題です。卒業式にセコイことをやって自分をごまかしていないで、ちゃん憲法を整備して天皇制と対決せよ、ということです。

しかし、日本における近代天皇制の問題を追及してゆくと、前回の繰り返しになりますが、「尊王攘夷」の思想にぶち当たります。そして、「尊王攘夷」の本音は、看板に掲げた天皇制などではなく、天皇制という看板は、欧米に押し付けられた国家共同体運営の仕方とは違っていることを自分の心になっとくさせるための証明書、すなわち独立の証明書にすぎなかったのだということがわかります。つまり、「尊王攘夷」の本音は、実は、

私は集団生活が苦手です。というか、ひとと同じことをするのが嫌いです。「私はいまひとと同じことをしている」と感じるのが嫌やです。・・・日本国民としての一致を!・・・・私の嫌いなことです。
というSunanezumiさんの心情とまったく同一のもの、すなわち欧米支配という画一化への反抗(独立)です。しかし、尊王攘夷の志士やその後継者たちの犯した大きな間違いは、欧米支配という画一化に対抗するために、小さな欧米を内側に作ってしまったところにあります。近代天皇主義者(尊王攘夷主義者)の本音も、Sunanezumiさんの心情も、すなわち、日の丸を振ったり、君が代を歌ったりするのも(外的攘夷)、日の丸を燃やしたり、君が代を拒否したりするのも(内的攘夷)、実は、まったく同じ心情的動機から発したものと言えるでしょう。それは、自分の生き方は自分で決めたい(自由)、自分たちの所属する共同体の運営の仕方は自分たちで決めたい(独立)、そういう人間の深い深い根本的な欲求です。

日の丸・君が代の問題における対立は、わたしには、行き詰まって行き場の無くなってしまった醜い内ゲバ闘争のように思えます。対立する人々のそれぞれの立場から見れば、一方にとっては、国家(日の丸・君が代)は自由を否定するものであり、他方にとっては、国家(日の丸・君が代)否定は独立を否定するものだから、この対立には解決の行き場がありません。しかし、左右のイデオロギーにまみれた古い単純な国家観から離脱し、近代天皇制の本質は「攘夷」すなわち独立であることを知り、国家の独立は個人の自由と切り離すことはできないことを理解し、そして何よりも、いずれの立場も、「自分の生き方は自分で決めたい、自分たちの所属する共同体の運営の仕方は自分たちで決めたい」、そういう人間の根本的な欲求から生まれていることを理解することによって、この醜い内ゲバ闘争のもつれた糸をほどき、行き場の無い対立を解決の道に導くことができるのではないかとも思われるのです。そして、喜劇のような悲劇のような、実にくだらない、日の丸・君が代問題(卒業式闘争や法制化)から人々を解放し、学校の先生や政治家達には、もっと大切な仕事に時間を費やしてもらいたいと思います。(税金をむだ遣いするな!)


(6)もっとおいしいもの

ちなみに私は徴兵制のない日本が好きです。別に高い理想からではありません。私は集団生活が苦手です。私の魂はそんな拘束された生活の中で、きっとしおれ切ってしまうでしょう。ですから、それだけの理由でも、私は現行日本国憲法が好きです。・・・・
食べたことがなければ、世の中にはもっともっとおいしいものがあることに気づきません。わたしたちがこれから作るあたらしい憲法にも徴兵制はありません。そして、Sunanezumiさんはこの憲法を、現行憲法よりも、もっともっと好きになるでしょう(^^)。Sunanezumiさんご自身がこの憲法作りに参加するからです。しかも、この憲法は、Sunanezumiさんの大嫌いな立場の人々も好きになるのです。日本人自身が自らの経験と知恵と試行錯誤によって作りあげてゆく憲法だからです。

わたしたちがこれから作るあたらしい憲法は、「天」あるいは「神」のような超越的な存在が絶対的命令として、上から与えられるものではなく、また、国内外の特定の権力者や覇権国家が、「神聖」あるいは「普遍」などという美名の下にわたしたちに服従を強いる命令でもなく、わたしたち自身が、わたしたちの自由意志によって、わたしたちの内発的要求に従って、わたしたちの住む日本国家という共同体をどのように運営したいかを表明するものであり、その憲法は、共同体運営の基本的な方針と原則に関して、わたしたち日本人が自発的に相互に誓う自由の契約です。

おたより、ありがとうございました。