佐倉哲エッセイ集

日本と世界に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


Sunanezumiさんより

99年8月11日

日の丸・君が代法制化への思い

福原和明さんとの「君が代・日の丸」に関するやりとりを読みました。私はあえてどちらかと言うと、福原さんに賛成です。

もちろん見解としては、佐倉さんのほうが正論だと思います。でも、佐倉さんのような見解に立つ人はおそらく、今回の法制化に対してこのように言われるのではないでしょうか。「君が代を国歌にしても、別にいいんじゃないの?日の丸を国旗にしても、別にいいんじゃないの?」決して自ら率先してそれを実現しようとはされないでしょう。「ぜひ日の丸・君が代を日本の国旗・国歌として法制化しましょう」とは言わないでしょう。

そう考えると、私は少し身構えてしまいます。日本政府の公式見解がどうであれ、今回の法制化に熱意を燃やした人たちの本心は、もう少し別のところにあるように思われます。もちろん、軍事大国化を目指している、などとは言いません。ただ、日本の現状に飽き足らぬ思いを懐き、戦前の日本への郷愁に駆り立てられているように感じられます。

彼らにとって日の丸は、懐かしの日本の象徴なのではないのでしょうか。彼らにとって君が代は、古き良き(?)天皇治世への恋歌ではないのでしょうか。もしそうであるなら、彼らの思惑に乗せられてしまうことには躊躇せざるをえません。なぜなら、かような政治的保守主義は往々にして、過去の過ちに対する反省を欠いているからです。老人が過去の<若気の至り>を、笑い話として思い出すように。

それともこれは、私の偏った思い込みなのでしょうか。

written by Sunanezumi



作者よりSunanezumiさんへ

99年8月14日


(1)護憲派の自業自得

彼らにとって君が代は、古き良き(?)天皇治世への恋歌ではないのでしょうか。
たとえそういう考えが背後にあったとしても、現代の日本国は象徴天皇制ですから、文句は言えません。天皇制そのものが問題ならば、卒業式に「君が代」を歌わないとか、日の丸をあげないとか、という、セコイことをやっていないで、憲法を改正するなり、わたしが主張するように、新しい憲法を作って、はっきりさせるべきだと思います。

本来、国旗や国歌そのものの問題は、もっと単純で、いろいろな代案を国民の前にならべて、それぞれのデザイン、歌詞、メロディーを比較検討して、どれがよいかを国民投票なりで決めればそれですむのです。戦後半世紀以上経つというのに、その間に、「日の丸」や「君が代」に反対する政治勢力が、見るべき代案の一つも国民の前に示す意志さえみせなかったのは、「日の丸」や「君が代」が軍国主義や天皇主義のシンボルとして反対できるという利用価値があったから、としか言いようがありません。

天皇制の問題は、国家政体の問題であり、それは憲法の問題です。しかるに、日本では、本来天皇制に反対しているはずの政治勢力が、「憲法には触ってはいけない」という自らを律する規律をつくってしまったために、国会の場で天皇制の問題(憲法の問題)と直接対決することができなくなり、その結果生まれたのが、実にくだらない、国会の外(学校)での「日の丸」「君が代」騒動だと思います。今回の法制化はそれに対する単なる反動でしょう。「日の丸」「君が代」の法制化は護憲派の自業自得だと思います。


(2)天皇制を支えているもの

日本の現状に飽き足らぬ思いを懐き、戦前の日本への郷愁に駆り立てられているように感じられます。
わたしには、天皇制の問題はもっと底が深いと思われます。

近代天皇制は明治の王政復古にその起源をもとめることができますが、いま、わたしたちが天皇制を問題とするためには、幕府を倒し、新しい政府を作った幕末・維新の下級武士たちが、日本の新しい国家体制として、なぜ、それまで忘れられていた朝廷を担ぎ出して、天皇制を選んだ(?)のかを考えてみる必要があると思います。倒幕・維新に活躍した人々はいまでも日本人に人気がありますが、彼らこそが、近代天皇制の基礎をつくった張本人だからです。

わたしは、近代天皇制を支えているものの正体は「尊王攘夷」にあると思っています。清国におけるアヘン戦争、日本におけるペリー・ショックなど、幕末における対外的危機感が、日本国家の存在意義を理屈づける国家イデオロギーを必要とし、当時それにもっとも成功したのが、尊王攘夷の思想だったのではないでしょうか。つまり、天皇制を支えていたものは、天皇の人格ではもちろんなく、朝廷(皇室)の権力でもなく、天皇制という政治体制でもなく、独立国家としての日本の存在意義を与えてくれるなにものかであり、たまたま、天皇制イデオロギー(たとえば会沢正志斎の『新論』)がそのときその必要性を満たしていたにすぎなかったのだと思います。

それは現代でも同じだと思います。たとえば、三島由紀夫の「天皇」の正体も、その仮面を剥げば「日本」そのものが姿を現すだろうと思います。したがって、かつても、今も、天皇制を問題にするということは、天皇制そのものではなく、それをささえている土台を問題にすることだと思います。天皇主義者自身の本音が天皇制ではないからです。日本における反天皇主義活動(日の丸、君が代に対する反対運動)が、日本における天皇制の問題を解決するどころか、逆にそれに油を注ぐ役目(たとえば今回の法制化)しか果たし得ないのは、かれらの活動が、天皇制の皮相的な部分(反民主主義)にしか矛先を向けておらず、天皇制を支えている土台を問題として取り上げる視点をまったく持たないからだと思います。天皇制は、けっして単なる「古き反民主主義」としてかたづけることはできないと思います。

おたより、ありがとうございました。