佐倉哲エッセイ集

日本と世界に関する

来訪者の声

このページは来訪者のみなさんからの反論、賛同、批評、感想、質問などを載せています。わたしの応答もあります。


福原和明さんより

99年7月20日

日の丸・君が代に反対する理由4


体制側の番犬的な屁理屈には騙されない

 佐倉さんが「マルクス・レーニン」主義を間違っているとし、これに反対されてい るということはよく分かりました。そして私が「マルクス・レーニン」主義の信奉者 だから私の主張も間違いだとおっしゃいます。しかし佐倉さんが間違いをされている のは、私の主張と「マルクス・レーニン」主義は何の関係もないということを認識し ていないことです。私の主張の基になっているものは、私自身がおかれた境遇や体験 です。「マルクス・レーニン」主義など介入する余地は一切ありません。

 私は、かつてのソ連や現在の中国の国家体制が良いとは思いません。折しも天安門 事件の時、知り合いの中国人留学生が、私の「日本は悪い国だ」という意見を受けて、 「中国よりも日本は良い国だ。言論の自由がある。中国国内で人民解放軍の批判など 到底できない」と私に話してくれました。国民からの批判を圧殺する国家体制は、ど んなイデオロギーを掲げていたとしても民衆にとっては敵です。

 北朝鮮は独裁国家であり、これを社会主義国家と思う人はいないでしょう。  人それぞれに考えがあり、全ての国民を一つの思想の元に統合することは反民主主 義そのものです。

 現時点では、ソ連や中国や北朝鮮の国家体制と「マルクス・エンゲルス」とは何の 関係もないと思います。「マルクス」主義が真に平等な社会を目指していると思われ るのに対して、以上の国家体制には特権階級が存在しているからです。

 私個人の日本の国家体制に対する怒りを出発点として、「日の丸・君が代」に反対 しているにも関わらず、「福原は左翼思想の信奉者である→左翼思想は壊滅した→福 原は間違っている」と佐倉さんは断定されます。これは、私に左翼思想の信奉者とい うレッテルを貼っておけば、私の主張を否定することが楽だからそうされているに過 ぎません。

 佐倉さんの「日の丸と君が代」の文中にあるように「日の丸・君が代」に反対する 者は極左であるとする偏見から脱却できないため、なにがなんでも私の事を左翼思想 の信奉者に仕立て上げなければならないのです。これは反共・赤狩りという思想が根 底にあると思います。  労働者側からの主張が、すべからく「マルクス・レーニン」主義であり、その全て が間違いであるという資本主義体制側の番犬的屁理屈には、私は決して騙されるまい と思います。  


(1)『日の丸』が国のシンボルであるという基本的な事実」など存在しない

日の丸は国のシンボルである、というのが基本的な事実だということです。 ・・・ 日の丸は国のシンボルである、という事実は、日の丸がその他のシンボルであること の下敷きになっていることといえるでしょう。
「日の丸」は図柄であるということは基本的な事実と私は認めます。ただの図柄であ る「日の丸」(センスのないダサい図柄だと思います)を何かのシンボルとするため には、必ず何らかの意志が働いているのであり、「日の丸」が国のシンボルであると いうことは基本的な事実ではなく、何ものかの意図・目的を元に造られた既成事実で す。

「日の丸」が国のシンボルと一般的に思わされているのは、自然にそうなったわけで はないでしょう。桜とか富士山は国内・国外で認められた日本という国のシンボルで あり、これらは自然にあるものですが、「日の丸」は自然に湧いて出たわけではあり ません。この「日の丸」をシンボルとして使うのはなんらかの意図・目的があっての ことであり、それらが集まって「日の丸」を国旗とする既成事実(造られた事実)が できてしまっている、というのが正確な見方だと思います。

「日の丸」と呼ばれる図柄は近代史上、航海上の必要性から他国船との区別の必要が 生じてはじめて用いられたのであり、「『日の丸』が国のシンボルであるという基本 的な事実」などというものが元にあったわけではありません。  シンボルとはそれを使用する意図や目的が最初にあって、それに基づいて使用され ているのです。

 私の主張は、「日の丸」という図柄の下に侵略された側から見たら「日の丸」とい う図柄は侵略のシンボルになるということです。

 もし、敗戦直後に他国の例と同様に「日の丸」が廃止されて、別の旗が国旗になっ ていたら、「日の丸」を国旗としようとしようとする者は、現在のドイツでいえばハー ケンクロイツを掲げている「ネオナチス」のような、反動右翼思想の信奉者以外には いないことでしょう。


(2)人を殺した包丁で料理する感覚

料理包丁は強盗や殺人に利用される。わたしは強盗や殺人に絶対反対である。だか ら、料理包丁に断固として反対する。これが、福原さんの論理です。
 私の論理は、「料理包丁は強盗や殺人に利用される。わたしは強盗や殺人に絶対反 対である。だから、料理包丁に断固として反対する」ということではありません。こ の料理包丁のたとえを用いると私の主張は次の通りです。

「この料理包丁は強盗と殺人に利用された。わたしは強盗や殺人に絶対反対である。 だから、強盗と殺人に利用されたこの包丁で料理したくない」

 ということです。これが一体なんの間違いに陥っているというのでしょうか? 実 に普通の感覚だと思いますが。  たとえはあくまでもたとえに過ぎませんが、同じたとえを用いると佐倉さんの論理 は次のようになります。

「この包丁が料理包丁であることは基本的な事実である。この包丁は強盗や殺人に利 用されたが、料理包丁であるこの包丁を使って料理をしたところで何が問題なのか。 この料理包丁で料理をしたくない者は特殊な思想の信奉者である」

 これが佐倉さんの論理です。

 しかも、この「日の丸」という料理包丁は、洗っていない(罪を精算していない) ために殺人の際の血糊がべっとりとついたままなのです。 「日の丸」という包丁は殺人に使ったけれども、この包丁は料理包丁なのだ。殺人刀 である「ハーケンクロイツ」とは違うのだ。だからこの包丁を使って料理をして何が 悪いのか。殺人の際の血糊がべっとりついたままだけどしょうがないね。

 私が嫌悪するのはこういうおぞましい感覚です。これは殺された人を冒涜すること だと思います。  包丁は料理に利用されている限りはただの料理包丁です。これが殺人に利用された ら殺人包丁です。殺された側にとってそれは料理包丁などではなく殺人包丁以外の何 ものでもありません。

「日の丸」も国の区別だけに利用されている限りは、区別としての国のシンボルに過 ぎません。これが侵略や抑圧に利用されたら、やられた側から見ると侵略や抑圧のシ ンボルになるといっているのです。私の立場はやられた側と同じだから「日の丸」に 反対だといっているのです。  私の視点は殺される側の視点です。視点が違えば事実もまた違います。佐倉さんの 御主張は、この視点の違い(立つ位置の違い)という観点を完全に欠落しています。  侵略の真ただ中にいた中国人から見た日本人は「東洋鬼」であり、マルコムXから 見た白人は「漂白された悪魔」になるのです。


(3)NHKの世論調査は世論操作

先週おこなわれたNHKの世論調査によると、「日の丸は日本の国旗としてふさわ し いと思う」と答えた人は89%で、「ふさわしいと思わない」と答えた人は4%でし た。 福原さんのいう「日の丸が嫌いな人々=民衆側」はわずか4%です。福原さんのいう 「日の丸が嫌いな人々=民衆側」というのは、わたしが何度も繰り返して指摘してき たように、やはり、ある特殊な人々のことを指すようです。
 私はNHKの受信料を払っていません。理由は、NHK役員の人事権は国民にはな く、実体としてNHKは、私の反対する自民党の広報機関になってしまっているから です。

 この偏向した放送局の世論調査など世論操作のためのヤラセです。偏向している放 送局のデータなど到底信用できるものではありません。しかも、毎日の放送終了時に 「日の丸」がはためいている映像と、「君が代」の楽曲を放送しているのです。自民 党とそれに追随する奴らからすれば、私のような主張をするものを「ある特殊な人々」 したい気持ちはよく分かります。奴らがいかにもやりそうな手口です。

 佐倉さんは、このインチキな「世論調査」を根拠にして「福原さんのいう「日の丸 が嫌いな人々=民衆側」というのは、わたしが何度も繰り返して指摘してきたように、 やはり、ある特殊な人々のことを指す」と本気でおっしゃるのでしょうか? ジョー クではなくて? マジで?


(4)少数意見を圧殺する者の正体

この、「日の丸が嫌いな」4%というのは、どんな人々の集まりなのでしょうか。福 原さんがその代表的な人であるとすると、わたしが想像したことは的確だったことに なります。つまり、日の丸を侵略のシンボルと考え、それに反対するのは、ある特殊 な政治的ドグマ(マルクス・レーニン主義)の信奉者に違いないということです。
 偏向した放送局のデータはインチキに違いありませんが、仮に「日の丸」が国旗と して相応しくないと考える人がたった4%しかいないとして、だから一体なんだとい うのでしょうか。大勢と一緒の考えがそんなに正しくありがたいものだとお思いです か?

 日本人は「みんなと一緒」というものを異常にありがたがる傾向があります。これ は現在も戦前も同じです。

 1931年から1945年までの日本では、戦争(実体は侵略)反対を主張する人は圧倒的 に少数でした。圧倒的多数の日本人は、たとえ心の中で戦争反対と思っていても、み んなが戦争に賛成しているということなので戦争に加担し、「南京陥落」を祝って提 灯行列をつくり、若者を「立派に死んでこい」と戦地に追いやりました。戦争に反対 するものは「アカ・非国民・国賊・売国奴・特殊な奴」などというレッテルを貼られ て特高警察にしょっぴかれ、その考えを変えるように拷問を受けました。

 しかし結果は、日本の国土は焦土となり、間違っていたのは圧倒的多数だった戦争 賛成論の方であったことが明らかになりました。

 みんなと同じ考えをありがたがることが、どんなに危険かということは歴史が証明 しています。それは個の論理よりも場の論理を優先させるということであり、権威を ふりかざす者や権力を持つ者に利用されがちです。ですから私は、みんなとは違った 考えというものにかえって誇りを感じます。  体制側でなく、事実として民衆側に存在している私を、少数意見という理由で「自 称『民衆側』」とし、その正体はある特殊な政治的ドグマ(マルクス・レーニン主義) の信奉者とする佐倉さんの正体は、その本質において特高警察と同じです。


(5)私の持つ民主主義の考えと左翼思想の信奉者像

左翼思想を読めば、福原さんご自身の考え方がきわめて純粋な左翼思想(マルクス・ レーニン主義系統の思想)であることがすぐわかっていただけると思います。
 なるほど、左翼思想の究極の目的は「民衆側・労働者側」の平等社会(社会主義・ 共産主義)を作ることでしょう。マルクスの時代は現在以上に労働者の立場がひどく みじめなものだったため、マルクス思想は労働者にとっては一筋の光だったことでしょ う。

 中国では階級が差別を産み、差別は侵略や虐殺につながるから、「階級の苦しみを 忘れまい」ということで共産主義国家になりました。その侵略や虐殺をしでかしたの は言うまでもなく日本です。これは佐倉さんもお認めになる歴史の事実で、中国が共 産主義国家でも日本に文句をいわれる筋合いはありません。

 さて、私は「主権在民・民主主義を尊重する」立場に立っているので、私の目的は、 口先だけの日本の「主権在民・民主主義」を実際のものにすることです。ただ、私が 生きている間に実現できる可能性は低いと思います。  私の理解している民主主義とはなにか。簡単にいえば、特別な権威・権力の存在を 否定し、他人に害を及ぼさない限り自分の考えを主張でき、あらゆる理不尽な強制を 否定でき、民衆が運営していく社会ということです。これはソビエトも中国も実現で きなかった社会です。

 現状が不平等であるので、これに対して「もう、いいかげんにしろよ」と思ったこ とが私の出発点です。真の平等な社会など、人類が道徳的に進化しない限り実現する はずがありません。プラスマイナスゼロというのが平等ということであれば現実はマ イナス100であり、いきなりプラマイ0にするのは現実的に非力な私には無理でも、 せめてマイナス95とかマイナス90に押し戻していこう、というのが私の考えです。  左翼思想の信奉者とは、共産主義だけが人類全体が幸福になれる社会システムだと いうことを信じて、この考えをみんなに強制しようとする人の事をいうのだと思いま す。彼等にとって左翼思想は聖書の神と同じであり、これ以外に正しいものはありま せん。プロの左翼運動家が、体制側が犯人である社会問題(成田空港問題・薬害エイ ズ問題など)に対抗する市民運動に「被害者の側」を自称して参加する例があります が、彼等の本当の目的はその社会問題の被害者になっている人々を助けることではな くて、その被害者の人々を出汁に使って自分達の主張を声高に叫びその主張を「我々 は正しいんだからお前ら従えよ」と強制することです。彼等は事実よりも実際よりも 自分の思想を優先させる人々です。

 私は現在不当な扱いを受けている大多数の人々の立場が、少しづつでも本当に改善 されていくシステムであれば、それが社会主義的でもキリスト教的でも何でも良いの です。新宿のホームレスを追放した行政と、ホームレスに食事を提供するクリスチャ ンとではどちらがホームレスの人々の隣人になったでしょう。

 主権在民・民主主義以外に私に原理原則はありません。  どうして佐倉さんは、私と「マルクス・レーニン」を無理矢理結び付けようとする のか。それは、はじめから「日の丸・君が代」に反対するものは左翼思想の信奉者で あるという偏見を持っていなければできないことです。私の主張を捏造したり、私の ことを「マルクス・レーニン」と差し替えなければ佐倉さんの論理は成り立たないの です。


(6)抑圧してくる側に対抗してどこが悪いのか

福原さんご自身が認めておられるように、「日の丸」に反対することとは、すなわ ち、「民衆側・労働者側」の立場に立って「体制側・資本家側」に対抗することであ る、とあくまでも主張されるところに、「日の丸」反対運動が左翼の政治運動にすぎ ないことが明々白々なのです。
 佐倉さんが「左翼の政治運動」に反対の考えをお持ちであることは分かりました。 しかし、一市民・一労働者としての「日の丸」反対の主張が、左翼の政治運動にすぎ ないとまでいわれる背景には、「日の丸に反対する奴はアカだ」という強力な思い込 みがあると思います。これは実に古臭い(おやじくさい)偏見です。 

 私の主張に対して、「左翼の政治運動」とどうしても呼びたくば、思想・信条の自 由上そう呼んでいただいて結構ですが、私自身マルクス主義を奉じておらず、左翼運 動家でもない(労働組合にさえ所属していない)ので、これは単なる言いががりにす ぎません。

 事実として私は一労働者なのであり、私の立場は実際的に「侵略される側・抑圧さ れる側」と同質です。人ごとのように「民衆側・労働者側」の立場に立つのではなく、 現実として「民衆側・労働者側」に私は実際に存在しているのです。自分の実際の立 場から「日の丸」に反対することとは、すなわち、「日の丸」という糞旗を国旗と勝 手に決めつける奴ら・「日の丸」を押し付けてくる側に対抗することです。そして、 「日の丸」を押し付ける側はほとんどの場合「体制側・資本家側」と一致しています。

 私の立場は思想ではなく現実です。私は、マルクス・エンゲルスの主張を学校で教 わりませんでした。しかし、私は実際に体制側から抑圧されているという事実がある から体制側に対抗しようとするのであり、奴らが好きな「日の丸・君が代」が反吐が 出るくらい嫌いなのは奴らがそれを押しつけようとするからです。これは、マルクス もレーニンも一切関係ないことで、基本的には私自身の個人的な問題です。

 抑圧してくる側に対抗して一体どこが悪いというのでしょうか。抑圧してくる側が 利用する「日の丸・君が代」に反対して何が悪いのですか。私は奴隷根性を持ち合わ せていないため、反発心がふつふつと沸き上がってくるのです。  私のことを特殊な人とする佐倉さんの立場は、現体制で恩恵に浴して満足する側で あろうということです。


(7)「体制側・資本家側」と「民衆側・労働者側」は実在する

わたしたちの社会は、19世紀の人々が考えたような、「体制側・資本家側」(悪 側)と「民衆側・労働者側」(善側)に分けることのできることのできるような単純 なものではありません。ほとんどの労働者は同時に資本家(資本投資家=銀行預金者 や株主)であり、資本家でない労働者など、資本主義が発展すればするほど、マルク スが予言したのと裏腹に、消滅していきます。
 私に銀行預金などありません。また企業の株なども保持していません。もともと少 ない賃金の上に高率の種々の税を徴収され、手許に残る金が生活にかかる費用に対し てギリギリのものだからです。しかし、私が特殊な例なのではなく、アメリカやヨー ロッパではどうか知りませんが、多くの日本人はこのような境遇におかれているよう に思います。

 日本において、銀行預金の利子や投資によって生活できる人はほんの一握りです。 ほとんどの日本人は労働によって得る賃金が主な生活の糧であるので、その実体は労 働者以外の何ものでもありません。

 現在の日本においてほとんどの労働者が同時に資本家であるならば、失業で食べて 行けなくなる人々やホームレスの人々がなぜこんなにも増え続けているのでしょう。 私も何らかの事情で働けなくなれば、容易にホームレスになります。

 日本においては「体制側・資本家側」と「民衆側・労働者側」はハッキリと分けら れるのです。労働しなければ生活できなくなる人は間違いなく「民衆側・労働者側」 にいます。日本の経済システムが資本主義である以上これはあたりまえのことです。 「体制側・資本家側」と「民衆側・労働者側」という立場の違いが実際にあるのにも 関わらず、いかにもそれがないように論じるのは「体制側・資本家側」の詭弁に他な りません。  


(8)人類を破滅に向かわせる資本主義

他のマルクス・レーニン主義国家がすべて破滅したように、彼らも、やがて、マルク ス・レーニン主義を完全に放棄することでしょう。
 資本主義が永遠のものというわけでもありません。  金もうけのためには何でもありの資本主義は、水俣病などの公害病を発現させ、添 加物入りの食物やダイオキシンにより国民全員を癌で殺そうとし、労働者を死ぬまで 働かせ、有明湾のムツゴロウを死滅させ、地球を温暖化させ、オゾンホールを大きく していきます。金もうけのためなら人殺しも常套手段です。戦争は金もうけのための 有用な手段の一つです。「新ガイドライン関連法」によって日本は再び金もうけの常 套手段である戦争への道をあゆむ準備ができました。

 資本主義の行き着くところは環境破壊・人間の心身の破壊・戦争による決定的な破 滅です。資本主義の根底にあるのは欲望です。人類がこの先も生き残るためには、人 間の持つ欲望を自分でコントロールしていかなければならないと思います。急には無 理なことですが、生き残るために人類はいずれ、何が何でも売りまくる金もうけ至上 の資本主義を完全に放棄するしかないのです。

資本主義を突き詰めて考えていくと、最後には他国を侵略するしか手がないのです。 世界一の金持ち(イギリス国民全員が100年間何不自由なく生活できるほどの財産 を持つ)であるエリザベス女王の財産は、大航海時代以来の侵略・略奪によって培わ れました。

しのぎのためなら命(たま)をとるヤクザと資本主義にどれほどの差があるという のでしょう。私の見るアメリカ合衆国は資本主義の権化でヤクザな国です。日本の資 本主義はその第一の子分です。


(9)「日の丸・君が代」が果たしてきた歴史的役割り

日の丸は国家のシンボルであり、その国家が侵略したことがある、という歴史的事実 を知れば、日本の侵略行為に対しては怒りや嫌悪感を抱いても、日の丸そのものに対 して怒りや嫌悪感をいだくわけがありません。
星条旗も「日の丸」も燃やされたことがある。その他、その国に抵抗しようとする 人々によって様々な国旗が燃やされています。これらは事実です。こんな行動を人々 にとらせるのは、アメリカ合衆国の傲慢や日本の傲慢などに対して怒りや嫌悪感を持 つ時は、同時にその傲慢のシンボルに対して怒りや嫌悪感を持っているということで す。

 戦前・戦後と一貫して、「日の丸・君が代」に最も固執しているのは文部省です。 国旗・国歌を尊重させることは、国家体制に忠誠を示させることに他なりません。文 部省の教育とは、体制側に忠実に従う労働者を教育することなのです。  私も、小学校の卒業式では「日の丸」に対してお辞儀をし、「君が代」を大きな声 で歌いました。それは、「日の丸・君が代」が果たしてきた歴史的役割りを教えられ ず、一切知らなかったからです。

「日の丸・君が代」が果たしてきた歴史的役割りを正確に教えていたとしたら、正常 な感覚を持つ子供なら「日の丸・君が代」に嫌悪感を抱くはずです。沖縄の女子中学 生が卒業式で「日の丸」を引きずりおろしたのは、彼女が左翼思想の信奉者だからで はなく、「日の丸」が果たした歴史的役割を知っていたがために、「日の丸」に嫌悪 感を抱いたからです。


(10)私は、「日の丸・君が代」に反対する

国家のシンボルを何度変えても、あるいは国家のシンボルをなくすことによっても、 日本を平和国家にすることはできません。
これは正しいと思います。国そのものが変わらなければ、国旗・国歌を変えたとし ても、また国旗・国歌を廃棄したとしても全く意味がないことです。

 しかし、侵略のシンボルや国家統制に使用した国旗・国歌すら変えることができな かった国が、この先どのように良くなっていくというのでしょうか。

 また、事実として現在、教育の現場で「日の丸・君が代」が強制されており、なお かつ「国旗・国歌法」が成立しようとしています。これは容易に「日の丸・君が代」 の国民全員に対する強制に結びつくものです。みんなと同じ考えがありがたがられる 日本の中で人と違う主張をすることは困難であり、実際的に「日の丸・君が代」は強 制されていくでしょう。こんな風潮に私は妥協せず、あくまでも反対するのです。

 国民総中流という幻想を見せられ、死ぬまで体制側にこき使われる我々。戦争の責 任をとらず子ども達に歴史の事実を教えない国家体制。こんな胡散臭い国には胡散臭 い「日の丸・君が代」が現状では相応しい国旗であり国歌なのかもしれません。日本 に主権在民・民主主義が真に根付くことがあれば、民主主義にとって胡散臭い「日の 丸・君が代」は自然に廃棄されることでしょう。その時まで、私は「日の丸・君が代」 に反対し続けます。



作者より福原和明さんへ

99年8月8日


(1)本当は認めておられる、「日の丸」は日本という国家のシンボルという事実

「日の丸」と呼ばれる図柄は近代史上、航海上の必要性から他国船との区別の必要が生じてはじめて用いられた・・・
まさに、日の丸が幕末に最初に使用されたのは、おっしゃられるように、「航海上の必要性から他国船との区別の必要が生じてはじめて用いられた」のです。日の丸は初めから、日本を指し示す標識、つまり日本国家のシンボルとして使用されています。


(2)なにが、日の丸を「侵略のシンボル」と強弁させるのか

今回は、日の丸は国家識別のための標識(国家のシンボル)であるという事実は、福原さんご自身も実は認めておられることがわかったわけですが、それにもかかわらず、日の丸は国家のシンボルではなく侵略のシンボルである、と強弁されるのはなぜなのでしょうか。わたしは、日の丸が国家のシンボルであることはあまりにも単純で明白な事実だとおもいますから、それにもかかわらず、日の丸は国家のシンボルではなく侵略のシンボルである、と強弁されるには、なにか特別な理由がなければならないと考え、

事実に基づいていないわけだから、それはある特殊な政治思想に基づいているに違いない。
と述べてきました。そして、わたしの想像が的を得ていたことは、今回のお便りも含めて、福原さんとのやり取りが回を追うごとに、ますますあきらかになっています。

福原さんがこれらのなかで述べられている政治思想というものは、福原さんの好き嫌いに関わらず、現代ではめずらしい、マルクス・レーニン主義、いわゆる「左翼思想」として世に知られているもの、とその内容も概念もまったく同一のものです。

マルクスやエンゲルスやレーニンの著作を読んだことがなく、日本共産党を含めた左翼と呼ばれる政治団体と何の関係もない」とか、「私の主張と「マルクス・レーニン」主義は何の関係もない」とか、言われても、主張されていることがらが、何から何まで、そっくりそのままマルクス・レーニン主義なのですから、たまたま同じ内容の政治的思想を福原さんが独自に思いつかれたとは考えられません。

たとえば、「資本主義を突き詰めて考えていくと、最後には他国を侵略するしか手がない」というのは、よく知られたマルクス・レーニン主義の代表的な考え方であり、福原さんはおそらくこの考え方をかつてどこかで読まれた(そして、もちろんこれも、もしかしたら、自分で独自に思いついた考えだと主張される)のでしょうが、それは、実は、『ソ連邦共産党綱領』にも書かれていることがらなのです。


(3)なにが、日の丸反対運動の異常さか

星条旗も「日の丸」も燃やされたことがある。その他、その国に抵抗しようとする人々によって様々な国旗が燃やされています。
そのとおりです。それは星条旗が米国という国家を象徴し、日の丸が日本という国家を象徴している、という事実があってはじめてできる、国家の不当な行為を弾劾するための政治的行為です。もし、星条旗が米国のシンボルでなく、日の丸が日本のシンボルでなかったら、このような政治的行動は無意味です。言うまでもないことですが、国家の不当な行為を弾劾するために、国旗を引きずり下ろしたり、燃やしたるする行動は、正常な政治的主張の方法です。

異常なのは、国家の過去の不当な行為(侵略、人種差別、等々)に反対するために、日の丸は国家のシンボルではない、日の丸は侵略のシンボルだ、などと主張している、日本という島国のなかにのみ存在する、世にも奇妙な日の丸反対運動です。日本における、日の丸反対運動がそのように奇妙なものとなったのは、国家そのものを消滅すべき悪と見る特殊な政治思想によって、日の丸反対運動がいままで牛耳られてきたからです。

そのような特殊な政治思想に牛耳られてきたこの運動の異常さを正し、日の丸反対の行動を正常な政治運動として生かすためには、その特殊な政治思想から解放され、事実に基づいた政治運動をする必要があります。それは、たとえば、

日本は国家として過去の侵略戦争の後始末をしていないのだから、そのような不当な行為を弾劾するために、日本が国家として過去の侵略戦争の後始末ををするまで、日本の国家のシンボルである日の丸を焼くなり、日の丸を引きずり下ろすなりして、抗議しようではないか。
というような具体的な政治的主張なら、それなりに十分説得力のある主張であり、もっと多くの支持者を得ることができるだろうと思います。それができなければ、日の丸反対運動は、かつての安保反対運動と同じように、空中分解してしまうことでしょう。


(4)それでも・・・

複雑な社会というものを、単純に「抑圧する側=金持ち=悪人」と「抑圧される側=貧者=善人」にわけて考えなければならない思考方法に取り憑かれてしまっている福原さんの立場から見れば、わたしの「日の丸」「君が代」に関する考えは、「その本質において特高警察と同じ」にされてしまうわけですが、まあ、いろいろな相違はあるといえども、日本をどのような国にしたいか、という本質的な問題点において、実は、わたしは、福原さんの考えとわたしの考えはそれほど懸け離れているとは思っていません。それはまず何よりも、日本における民主主義(あくまでも日本の民衆が主体となる政治体制)の確立を願うということです。

福原さんは日の丸や君が代に反対することがそれを作り出すと思っておられるのかもしれませんが、わたしは、まず何よりも、日本人の、日本人による、日本人のための憲法が必要だと考えます。日本人は、おそかれはやかれ、かならず日本人自身の憲法を作るでしょう。わたしたちがこれからつくる憲法は、お上(天皇、官僚、アメリカ政府)から、「神聖」あるいは「普遍」などという美名の下に、わたしたちがありがたくいただくものはなく、わたしたち自身が、わたしたちの汗と力によって、わたしたちの内発的要求に従って、わたしたちの住む日本国家という共同体をどのように運営したいかを自他に宣言するものであり、その憲法は、その基本的な方針と原則に関して、わたしたち日本人民衆が自発的に行う相互契約です。

おたより、ありがとうございました。