はじめまして。笠原 祥と申します。 興味深く拝見させて戴きましたが、多少疑問が残りました。 お手数ですが、ご回答頂ければ幸いです。
再び作者より梅本幹也さんへ佐倉様は、上記引用文のとおり、釈迦(仏教)は疑う余地のない明晰さで永遠の魂(アートマン)を否定した と書かれておりますが、私は、釈迦はアートマンは認識出来ないという立場であり、明確に否定されたのではないという気がします。「だから、認識の届く範囲(色・受・想・行・識)にはどこにも永遠の魂(アートマン)なるものは認められない、と主張したのです」はその通りだと思いますが、「これが仏教の永遠の魂(アートマン)否定の方法だったのです」というのは、少し飛躍しすぎているのではないかと思われます。97年10月17日
(1)仏教は疑う余地のない明晰さで永遠の魂(アートマン)を否定した
仏教は、永遠の魂を「肯定も否定もしなかった」のではありません。仏教は疑う余地のない明確さで、永遠の魂(アートマン)の存在を否定しました。仏教が肯定も否定もしなかったのは、認識の届かない領域に関する事柄です。しかし、すでに紹介したように、認識のできる領域(肉体と心)に関しては、そのどこにも永遠の魂(アートマン)など見つからない、とはっきりと否定したのです。この区別が大切なのです。非常に大切なことなので、もう一度、引用します。よく注意して読んで下さい。
比丘よ、またここに、一人のひとがあるとするがよい。彼は、すでに覚者を見、覚者の法を知り、覚者の法に順い、あるいはまた、すでに善知識を見、善知識の法を知り、善知識の法に順い、したがって、彼は、色(肉身)は我(アートマン)であるとも、我は色を有すとも、我が中に色有りとも、色の中に我有りとも、見ることはない…。一切は因縁の結ぶがままに有り、一切は因縁の結ぶがままに壊するものであることを、ありのままに知ることができるのである。かくのごとくにして、彼においては、色・受・想・行・識、すべて壊するものであるがゆえに、彼は、このように、仏教の「我(アートマン)」否定は形而上学的論議ではなく、むしろ、わたしたちの認識能力の届く範囲内である人間存在である色・受・想・行・識(肉体、感覚、感情、意志、意識)のどこにも永遠の魂(アートマン)なるものは認められない、というものなのです。バラモン教やわたしたちの知っている巷の宗教の教えは、認識の届かない領域(死後の世界とか霊界とかあの世とか)に関するさまざまな憶測的断定に満ちています。しかし、仏教は、認識能力の届かない領域に関する断定はあくまでも知識として認めなかったのです。だから、認識の届く範囲(色・受・想・行・識)にはどこにも永遠の魂(アートマン)なるものは認められない、と主張したのです。これが仏教の永遠の魂(アートマン)否定の方法だったのです。われ(アートマン)というものはない。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、
何によってか、わがものがあろうか。
と知ることができるのである。 (相応部経典22.55 増谷文雄訳)
何故ならば、そのような証明不可能な形而上学的問題に対しては沈黙を守るというのが釈迦の立場であり、アートマンが無いと言い切ることは、アートマンが有ると主張することと、同じ愚を犯すことになるのではないでしょうか?
つまり、アートマンが無いと主張すれば、その証明をしなければなりません。釈迦は、色・受・想・行・識(肉体、感覚、感情、意志、意識)のどこにも永遠の魂(アートマン)なるものは認められないからアートマンは無いというような、短絡的な主張をしたとも思えません。そもそもアートマンが何か?はわからないのですから、アートマンの対象を色・受・想・行・識に限定することからしておかしなことです。色・受・想・行・識は確かに無常ですが、だからといって死後にアートマンが残らないという証明にはなりません。むしろ、それらは人間の本質(アートマン)ではないから、それから発生する様々な思いに執着することは間違いであると言っているように聞こえます。
アートマンを否定すれば、その否定に対してまた論議が巻き起こります。そして、それは証明の手段がありませんから、いつまでも収束しません。釈迦はそれを望んでいたとは思えません。また、アートマンを肯定しようが否定しようが、人間としてより善く生きていくことに本質的な違いが発生するとも思えません。釈迦は、そういう形而上学的問題にとらわれずに、自分が認識できる範囲内で、無常や因果律等の物事の道理をわきまえれば、執着から解放されるということを説かれたのではないでしょうか。
私は仏教を本格的に学んだ人間ではありませんので、何の根拠もなく勝手な思いこみで書かせて戴きました。不適切な表現がありましたら、お詫び致します。
梅本さんへの応答では、わたしの表現がまずしいので多少の誤解を招いているのだ思います。しかし、この問題に関しては、いろいろなところで(たとえば「無我の思想」)、繰り返し繰り返しわたしの見解を述べております。それをまとめますと、わたしの見解は次のごとくになります。
経験・観察できる世界 | 経験・観察できない世界 | |
---|---|---|
ブッダの立場 | 諸法無我。人間存在を構成しているもの(色・受・想・行・識)はすべては非我である、アートマンではない。 | 沈黙。「アートマンがある(ない)」「死後の世界もアートマンは生残る(ない)」などという主張はおろかである。(無記、無捨置) |
ブッダの理由 | 諸行無常。すべては変滅していて、恒常不変なるものはどこにも見つけることはできない。 | 知ることのできない領域に関する見解は独断に過ぎず、知識ではないので修業の目的に役立たない。(常見、断見) |
つまり、経験・観察できない世界(形而上学の世界)に関してはブッダは沈黙し、経験・観察できる世界においては無我を主張した、ということです。実際、「毒矢のたとえ」や「ヴァチャとの対話」などの経であきらかにわかるように、ブッダが沈黙し答えることを拒否した質問のすべては、世界の始まりとか、死後の世界に人は生残るのか、などという、経験・観察できない世界(形而上学の世界)に関する質問であり、仏典に現れるすべての「無我(非我)」の主張は、例外なく、「色・受・想・行・識」などの、経験・観察できるもの(諸法、ダルマ)に関する主張です。
ブッダはある問題に関しては沈黙するけれど、他の問題に関しては明確な主張を述べます。
マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。わたしが説くことは説くと了解せよ。ブッダは形而上学的ことがらについては沈黙したといわれるのですから、「アートマンは存在しない」となどと主張せず、知覚し経験できる、人間存在を成立させている要素(色・受・想・行・識)のひとつひとつに対して、これも非我なり、これも非我なり、と否定する方法を取ったわけです。(ブッダ、「毒矢のたとえ」)
たとえば、ある図書館において、「その本はない」などと言わず、その図書館の蔵書すべての本をひとつひとつしらべて、「これはそれではない」「これもそれではない」とすべての本について否定する、という方法がとられているわけです。その結果、「その本はない」といわなくても、その本が、知覚し経験できる範囲には、存在しないことが示されるのです。
仏教はジャイナ教と同じく諸要素の集合論をとる。しかし、ジャイナ教が業物質の担い手としての霊魂(ジ−ヴァ、生命体)を想定したのに対し、仏教は肉体を物質(色)の要素一本にまとめる代わりに、こころを感覚(受)・想念(想)・意志(行)・認識(識)の四種の作用に分解し、そのいずれもがアートマン(霊魂)ではない、という論理で、間接的に霊魂の実体性を否定し、同時に業とはそれらの心身の営むはたらきとみることで徹底した。(高崎直道、『インド思想論』、法蔵館、12頁)仏典のいわゆる無我説法といわれる経典は、いずれも、まことにみごとなまでに、そのことを徹底しています。つまり、「アートマンは存在しない(無我)」となどという形而上学的主張に陥らず、知覚し経験できる事柄(諸法)に関して「これも、これも、どれも、永遠不滅のアートマンではない(非我)、なぜなら知覚し経験できる事柄(諸法)はすべて変滅するから・・・」と主張する方法が取られているわけです。わたしが、梅本さんへの応答の中で「これが仏教の永遠の魂(アートマン)否定の方法だった」と言っているのは、そのことを意味しています。知覚し経験できる事柄(諸法)に関する観察から、形而上学的断定を導出しているのではなく、仏教の無我説は、みごとに、知覚し経験できる領域内にとどまった方法であった、ということを意味しています。
知覚し経験できない世界に関しては、ブッダは、つぎのような言葉を「一切」という短いお経の中に残しています。
比丘たちよ、わたしは「一切」について話そうと思う。よく聞きなさい。「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。だから、ブッダの言う「一切」とは別の「一切」を考えて、アートマン(永遠の魂)説に立脚して、「我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう」などと考えるのは、「まったく愚かな教え」であると、これを否定しました。誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故か。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。
(サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3)
「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」すなわち、知覚し経験できる事柄にはアートマン(永遠の魂)はない。なぜなら、わたしたちの知覚し経験できる事柄はすべては変滅するからである。知覚し経験できない事柄に関しては沈黙すべきである。なぜなら、そのような事柄は人間の認識能力を越えており、真実として確立できるものではないからである。仏教の無我の思想(アートマン説の否定)というのは、厳密にに言おうとすれば、このように二つの側面に分けて理解すべきだ、というのがわたしの立場です。(マッジマニカーヤ 中部経典22)
仏教はさまざまな思想を含む複雑な思想ですが、アートマン説だけは一貫して否定してきました。この無我の思想だけは、始めから今日に至るまで、すべての教派を通じて、一貫して伝えられてきた仏教の本質的伝統です。
「心身関係」対「個体のアイデンティティー」の本性についての、ブッダの見解は、無我論の原則にしたがっています。その原則は、存在を構成するスカンダ(蘊)、つまり心理・身体的集合体のほかには、それから独立の、自律性を持った、永遠に生き続ける魂などはない、というものです。これは、仏教のすべての宗派に共通で、普遍的な教義です。そうだとすると、永遠の魂を教える宗教は、もちろん、もしかしたら真理なのかもしれませんが、それは仏教ではないということになります。(ダライ・ラマ、『ダライ・ラマ、イエスを語る』、角川書店、108頁)