佐倉さん、はじめまして。

いつも楽しく読ませて頂いております。

実はひとつお伺いしたいことがあるのですが。

1.釈迦は輪廻それ自体がマーヤだと悟った。
2.輪廻から解脱するには輪廻をマーヤであると理解することが必要である。
3.涅槃とは「そもそもマーヤである輪廻から、脱する必要もないことを理解できた状態」である。
4.カースト制度がなければ所謂輪廻という思想もない。
5.当初、釈迦はカースト制度の束縛から逃れる道を説くことに主眼を置いていた。
6.日本にはカースト制度がないのだから釈迦の教えも必要ない。
このように考えているのですが、間違っているでしょうか。

ここに述べられていることが間違っているかどうかわたしには言えませんが、わたしの理解するところとは明らかに違うところがありますので、それを少し語ってみようと思います。

(1)「釈迦はカースト制度の束縛から逃れる道を説くことに主眼を置いていた・・・

釈迦の思想にはあきらかにカースト制度を否定するものが含まれていますが、わたしには、釈迦がカースト制度否定に主眼を置いていたとは思えません。原始仏典を根拠にして見るかぎり、釈迦の取り上げた問題は人間にとってもっと普遍的なもの(老・病・死)だったと考えられます。釈迦の悟りとは、人間に悲苦をもたらすものやそれらから解放をもたらす方法への彼の深い洞察だと考えてよいと思います。つまり、人間の悲苦にはそれを成立させている様々な要因があり、それを取り除くこと(あるいは、それをつくらないこと)によって、人間を悲苦からの開放しようとするものです。いわゆる縁起(プラティーチャ・サムットパーダ「ものごとは縁りて起こる」)思想です。

これは、別の角度から言えば、じつは、宗教批判なのです。原始仏典をみれば明らかにように、釈迦は、信仰や祈祷やまじないや供犠や占いなどを、なんの役にも立たないものとして批判していますが、それは、釈迦が、神や魂などの神秘的な力に依存して助かろうという方法、つまり宗教そのものを否定したからです。なすべきことは、人間の悲苦を成立させている様々な要因を究明し、それらをつくらないようにすることであって、形而上学的空想的神秘主義(人間の認知を越えた事柄に関する都合の良い勝手な思い込み)への逃避ではない --- それが釈迦の教えの本質であると思います。


(2)「日本にはカースト制度がないのだから釈迦の教えも必要ない・・・

もし、釈迦の思想がわたしの理解するようなものだとすると、どうなのでしょうか、日本に釈迦の教えは必要ないのでしょうか。人間の悲苦を凝視することよりも、「幸福」の餌をぶら下げて、人々を神秘主義の逃避に誘う宗教が、日本のちまたには満ちあふれているように思います。 釈迦の思想から言えば、オウムは偽宗教だから批判すべきなのではなく、宗教だから批判すべきなのです。


(3)「カースト制度がなければ所謂輪廻という思想もない。・・・

カースト制度と輪廻思想を関連づけられたのは素晴らしい洞察だと思います。輪廻思想は確かにカースト制度を正当化するイデオロギーです。現世においてどのように生きるかが次の世にどのように生まれるかを決定するという考え方に従えば、現世にどのように生まれてくるかは過去世においてどのように生きたかによることになります。そうすると、人がバラモンであるかどうかは「生まれによる」ことになります。釈迦はまさにことのことを否定しました。人がバラモンであるかどうかは「生まれによるのではなく、行為による」と主張しました。(スッタニパータ 650)


(4)「釈迦は輪廻それ自体がマーヤだと悟った・・・

これはおそらく正しいと思います。輪廻思想は、永遠の魂とか、過去世とか来世など、人間の認知の届かないことがらについての妄想ですから、ブッダはそのようなものは、「なんの役にも立たない」として無視(無記)しました。

マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである・・・。

(「毒矢のたとえ」)


(5)「涅槃とは「そもそもマーヤである輪廻から、脱する必要もないことを理解できた状態」である・・・

最古層に属する記録(スッタニパータ4章5章)によれば、悟りの世界(涅槃、ニルヴァーナ)は、この世において得ることのできるものでした。

この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。いかなる所有もなく、執着して取ることがないこと、これが洲(しま)に他ならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。(1086,1094)
老衰と死によって代表される悲苦から人間が解放されるのは、「いかなる所有もなく、執着して取ることがない」境地に至ったときである、と釈迦は言います。それを釈迦は「涅槃(ニルヴァーナ)」と呼びました。これは、釈迦が、バラモン教やウパニシャッドのいう「輪廻からの解放」とは違う意味で「涅槃」や「解脱」を語っていたことを示しています。

「輪廻」はサンスクリット語で「流れること」を意味する「サムサーラ」の訳であって、古い時代から、「世の中」あるいは「世界」という意味に使用されており、サムサーラをすべて「生まれ変わる」と解するのは間違っていると言われています(中村元、『仏教語大辞典』「輪廻」1431頁)。

とくに仏教では、サムサーラとは「迷いの世界」を意味し、まだ解脱せず、いまだに苦の世界に生きている人間存在の世界を指して使われています。サムサーラとは、「彼岸」(涅槃)にたいする「此岸」のことであり、「不死の境地」(涅槃)に対する「死の領域」のことであり、煩悩の支配の状態のことを意味しています。

だから、煩悩そのものに執着したり、より良い「あの世」に生まれ変わりたいと願うのは、サムサーラ(輪廻)の世界に生きている(煩悩の支配下にある)人びとであり、解脱した聖者は「この世もかの世も望まない」(スッタニパータ 779)ということになります。ブッダが目指すべきものとして教えたのは、天界への生まれ変わりではなく、解脱・涅槃(煩悩からの自由)でした。(サンユッタニカーヤ 5:7)