『教行信証』に手ごろな現代語訳は無いかという質問を受けました。「ありません」。
教行信証は親鸞の主著です。親鸞思想全体が書かれています。この本こそ、人々に読み親しまれていい本だろうと私は考えます。ところが現代語訳も解説書もありません。理由があります。浄土真宗がカルト宗教だからです。親鸞の思想は当時ご禁制の思想だったからです。坊さん達も教学者達もほとんど念仏を称えないからです。
カルト宗教とは、法によらずに人に寄る宗教です。教祖の超人的な人格にあやかって救われようとする宗教です。超人的な親鸞像は、本願寺の覚如(1351年没)が作りました。親鸞の伝記は日本神話から始まります。天津児屋根尊が現れ、救世観音の告げがあり、聖徳太子までが親鸞には礼拝します。超人的な親鸞像は蓮如の時代までかけて完成していきます。東西本願寺では今でも本堂中央に親鸞が鎮座しています。門徒は仏壇で観音勢至の位置に親鸞と蓮如を祀ります。発想はオウムと同じです。
親鸞の神格化は浄土真宗が民衆の中に浸透していく上で避けられないことだったのでしょう。ユダヤ教は、アダムの両親に万物の創造主という奇説を付属させてこれを神にしました。キリスト教は、狂信的ユダヤ教徒に喧嘩を売り行った大工の息子を神にしました。教会は血祭りの神の子像をシンボルとし、ユダヤ教に牙を研ぐ陰湿な復讐心を燃やし続けています。宗教が民衆の中に入って行くには、カルト化は避けられないことなのでしょう。しかし、親鸞の神格化は親鸞の主張にとって不幸でした。
神格化とは、絶対に誤りがないと言う主張を伴います。親鸞の思想はご禁制の思想でした。主張は死を招きました。親鸞は常に官憲に見張られていました。教行信証は、いつでも容易に言い逃れができるような理論構成を採っています。かつての法然門下で、共に浄土教を学んでいた仲間には真意が伝わっても、官憲には伝統説と見分けが付かない構造を採ったのです。こうした二重性が教行信証を難しくしています。信じられないような飛躍と論理矛盾があります。親鸞は矛盾の確信犯なのです。これを、神様が書いた誤謬のかけらほどもない書物として読めばどうなりますか。当然支離滅裂になります。親鸞は批判者です。親鸞が批判している思想があります。伝統説です。ところが、親鸞はその伝統説を完璧に正しく継承した聖者と考えれば、天地が逆転します。教行信証は狂人の書とも酷評され、難解な書の代表となっています。
教行信証の思想はシンプルです。しかしこれは、念仏を称えないで理解しようとしても不可能です。親鸞は念仏者でした。教行信証は念仏の賛歌です。念仏を称えようと言っています。こうした本を、自分だけは特待生として念仏抜きで読もうとすれば心が通じません。論理が飛躍している書を読むには先に心をつかんでおくことが必要です。だから教行信証には現代語訳がないのです。
親鸞は批判者です。親鸞が批判している思想があります。伝統説です。ところが、親鸞はその伝統説を完璧に正しく継承した聖者と考えれば、天地が逆転します。教行信証は狂人の書とも酷評され・・・「教行信証は狂人の書・・・」---- ますます、読んでみたくなりました。