佐倉様
先日は、「和」についての拙い問いかけに丁寧なお返事を頂きありがとうございました。主張することを第一義とする民主主義とは別のシステム、「和」(=耳を傾けること)を基本とする新しい集団合意のシステムが可能なのではないか、とお考えなのですね。そのシステムが実現したとき、現実の場でどのような姿を採るか、私には想像がつきませんが、システムの具体的なしくみの可能性についても読ませていただけたらと思います。
それから、仏教関連として私のHPにリンクを張っていただいたのも、光栄です。ありがとうございます。
図に乗って、今回は、私にとっての本題である仏教についても、意見交換させてください。
佐倉さんは、仏教思想を歴史学・思想史として研究しておられるのですね。自分自身がどう生きるか、は置いておいて、釈尊や龍樹やその他さまざまな人々が何をどう考えたかを知りたいだけだ、ということでしょうか。しかしながら、永遠の魂や輪廻を主張する人々との誠実な真正面からの疲れを知らぬ論戦を読んでいると、まるで正法を広めんとする菩薩のようで、私には単に知的興味で仏教を研究しておられるとは思えません。本当のところはどうですか?半分以上仏教徒になってしまっているのではないですか?
無我・縁起・空・霊魂と輪廻の否定という佐倉さんの見解は、ほぼ完璧に私の仏教理解と重なっています。今日は永遠の魂や輪廻を主張する人々に対する佐倉さんの孤軍奮闘に若干の援護射撃をし、またわずかな仏教理解の差異に関して私の考え方を検分していただこうと思います。
1)援護射撃
仏教は永遠の魂の存在やその輪廻を教えているという理解は間違いです。その説明は、佐倉さんの説明で十分尽くされていると思いますが、敢えて蛇足を。
我々の中に永遠の真我(アートマン=現代の我々が霊魂という言葉で希望するなにものか)があり、それは肉体が滅んでも滅びることはなく輪廻を繰り返す、という考えは、釈尊の時代のインドの広く一般の常識でした。決して釈尊が説いた思想ではありません。アートマンの善因善果・悪因悪果の輪廻という考えは、当時の社会・共同体を維持するのに必要な規範の根拠ではあったのですが、同時に、苦しみの輪廻を永遠に繰り返さねばならないという思いは、当時の人々の大きな重荷でした。人々をその重荷から開放し、苦しみの輪廻から抜け出す方法を説いたのが、釈尊や六師外道(釈尊とは異なる教えを説く六人の師)だったのです。つまり、釈尊は、永遠の魂や永遠の輪廻を説いたのではなく、魂が永遠でないこと、もはや輪廻しないようにする方法がある事を説いたのです。
このように言うと、魂が永遠でなく、輪廻が無限でないにせよ、やはり有限回は輪廻するのか、と考える人もいるかもしれません。確かにさまざまな経典のなかには、有限回の輪廻を想定しているような言葉もたくさんあります。
しかし、魂=アートマンが永遠でなく、輪廻が無限でないことの釈尊の理由説明を考えれば、答えは自ずと明らかだと思います。
その理由説明とは、輪廻を背負うような永遠のアートマンなどない(無我)ということであり、無我の根拠は、ものはすべて条件が寄り集まって起こされた現象であり、条件によって始まり、条件によって変化し、条件によって終わる、時間の中の一時の現象であるという事実(縁起)です。私たちは燃える薪の炎であり、薪という条件がなくなればただ終わるのです。どこか他のところに行くわけではありません。
このように書くと、そこにどんな救いがあるのか、実もふたもないニヒリズムではないか、と思われるかもしれません。無我・縁起を聞いて絶望するのは、まだ自分をなにがしかのものと思い、執着しているからです。我執が残っているからです。我が物と我に対する執着は、あらゆる苦と必ず苦に転ずる(一時の)喜びの原因です。無我を知り、我執を超えれば、釈尊と解脱の喜びを共有できると思います。しかし、真に無我を知る、真に我執を離れることは、本当に困難なことで、釈尊は生涯をかけてその道を説いてくださったのです。
2)半分援護射撃、半分(重箱の隅をつつく)差異の議論 (無記に関して)
佐倉さんは、無記について、釈尊は経験から合理的に推察される範囲を超えたことには、積極的に判断を中止したと考えておられますね。私は、(世界が時間的空間的に有限か無限か、などの問題はさておき)死後の存在の有無については、上記1)に記した理由から必然的に、釈尊は死後の存在はないと明快な判断を持っておられたと考えます。ではなぜそれを表明しなかったか。それは善因善果悪因悪果の輪廻の教えが当時の社会をささえるものだったからです。縁起・無我をしらず我執を離れざるものに、死後生の有無を説いていたずらに混乱させてはならない、まず縁起・無我を知らしめ、我執を離れさせることが先決だ、無我・縁起を知り、我執を離れれば、死後生などないことは自明のことであるから。釈尊はそう考えておられたと思います。
3)差異の議論 (主客未分について)
佐倉さんは、京都学派の言う主客未分の、言葉の及ばぬ宗教体験に対して不信感を表明しておられます。白状すると、私はかつて京大哲学科に籍を置いていました。西谷啓治・梶山雄一・上田閑照などの諸先生の本も何冊か読みましたが、なにぶん怠惰な学生だったので、研究室に顔を出したこともなく、京都学派の主客未分とは何か明確に理解してはおらず、佐倉さんが問題にしておられる京都学派の「すべてのものはひとつである」という主張もぼんやりと想像できる程度です。(「一即多、多即一」とかのことでしょうか)
しかし、京都学派は置いておいて、私は個人の考えとして主客未分の宗教的体験は必要ではないかと考えています。真に無我を知り、真に我執を離れるためです。
チベット仏教では、法無我より人無我の方が理解しやすいので人無我を先に認識するそうですが(ダライ・ラマ「仏教哲学講義」大東出版社P226)、私の考えでは、自己の無我を知ることの方が、外の対象の無我を見ることより100倍以上難しいと思います。なぜなら自己の無我を観察しても、それは観察された(対象化された)自己の無我でしかなく、観察する主体の無我ではないからです。このように考えて、「これでは本来ひとつの自己が、観察の主体と客体に分離している」と反省してみても、主体と客体に分離した自己を観察して反省するもう一つ手前の主体の自己が生まれているわけで、言葉によっている限り、その言葉を操る真の主体を問うことは永久にできません。言葉を操る主体の「我」はどこまでも残るわけです。言葉・論理によっている限り、真の主体の自己の無我は知り得ない。これが上の1)に書いた真に無我を知り、真に我執を離れる事の困難さの理由なのです。
いきなり頭ごなしに言葉・論理を否定するのも間違いでしょう。釈尊やその他の人の正しい教えを学び、間違った教えを退けるため、自己本位の思い込みを排除するためにも、言葉・論理による探求が必要です。しかし、言葉・論理による探求が極限まで行った時、真に自己の無我を悟り、真に我執を離れるためには、最後に主客未分の経験が必要だと思います。そのために座学に止まらないさまざまな修行法が伝えられてきたのだろうと考えます。
共通点の確認ではなく、考え方の差異の考察が新たなヒントの糸口になると思います。佐倉さんだけではなく、永遠のアートマンの輪廻を主張する方のご意見ご批判もお聞かせ下さい。
(1)何のために仏教を学ぶか
自分自身がどう生きるか、は置いておいて、釈尊や龍樹やその他さまざまな人々が何をどう考えたかを知りたいだけだ、ということでしょうか。・・・半分以上仏教徒になってしまっているのではないですか?わたしは「自分自身がどう生きるか」という問題意識を持っていないので、そういうことになります。また、「仏教徒である」という自覚も持っていません。しかし、学んだことは、宗教的なものであれ、自然科学的なものであれ、知らず知らずのうちに、人に影響を与えざるをえないだろうと思います。そして、学ぶたびに仏教には驚かされることがしばしばです。
(2)無我
無我の根拠は、ものはすべて条件が寄り集まって起こされた現象であり、条件によって始まり、条件によって変化し、条件によって終わる、時間の中の一時の現象であるという事実(縁起)です。私たちは燃える薪の炎であり、薪という条件がなくなればただ終わるのです。どこか他のところに行くわけではありません。まったくその通りだと思います。縁起の思想、無常の思想などとの関連を考えれば、どうしても無我でなければならないはずです。
(3)無記
私は・・・釈尊は死後の存在はないと明快な判断を持っておられたと考えます。ではなぜそれを表明しなかったか。それは善因善果悪因悪果の輪廻の教えが当時の社会をささえるものだったからです。確かに、この点はすこしわたしの理解と異なります。わたしは、やはり、死後の世界など、わたしたちの知識が及ばない領域にについては、ブッダは沈黙をもって応えられたと考えます。「常見」と「断見」を排して中道を説いた仏教はブッダのこの姿勢を反映したものだと考えられます。また、すべてのドグマを捨てよ(スッタニパータ894)とか、信仰を捨てよ(サンユッタニカーヤ6:1)というようなさまざまなブッダの言葉も、やはり、神秘的・超越的ことがらについては沈黙したというブッダの姿勢を反映しているように見えます。とくに、『一切』という経には、ことことが、きわめてあきらかに明示されていると思います。
比丘たちよ、わたしは「一切」について話そうと思う。よく聞きなさい。「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故か。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。
(サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3)
このために、すべては無常であり、縁起によっておきている現象に過ぎない、というブッダの主張における「すべて」とは、「見渡すかぎり」「わたしたちが経験してきた世界においてはすべて」というふうに解釈すべきだ、というのがわたしの考えです。この「すべて」を、死後の世界や遠い未来世界のような、経験できない領域に延長することはなかった、と考えています。
しかし、「善因善果悪因悪果の輪廻の教えが当時の社会をささえるものだった」事実が、仏教がその教えを説いていくその仕方に関して、大きな影響を与えたこと(たとえば在家信者に対する生天思想)については、おおいに同意するものです。
(4)主客未分
言葉・論理による探求が極限まで行った時、真に自己の無我を悟り、真に我執を離れるためには、最後に主客未分の経験が必要だと思います。この「主客未分」問題についてはまだ十分語ることができないのですが、お気づきのように、わたしはつよい不信感を持っています。それは、つぎのような理由によります。原始仏典の中にそれに相当する思想が見られない。神秘的体験であって、知覚体験ではなく、そのため、ブッダの思想に特徴的な、普遍的説得力に欠けているようにおもえる。基本的にこの思想は鈴木大拙や彼の親友であった西田幾多郎の思想であり、その背後には汎神論(宇宙精神のようなもの)の形而上学があり、その源流は、仏教ではなく、バラモン教やウパニシャッドの哲学やヨーガ思想、及び、中国の老荘思想の影響を受けた中国禅の日本的焼き直しのようである、等々です。
これらは、まだすべて仮説ですが、鈴木と西田の例をすこしばかり紹介します。
客観と主観、われわれが心理学でも、論理学でも、二つを考えているが、その主観と見ているところの、一方の根源を尽くすというと、それがやがて、客観と見ておったところの、他方にずっと抜けて出る。ちょうど、トンネルの入り口のようなものである。入り口と出口を見ているとこのように見える。ところが、それを一方から底へ底へ、奥へ奥へと突き進んで行くと、向こうと、こちらと、畢竟して同じところに抜け出るという道理ではないかと思う。そうすると、ここにおいて、自分と天地というものが一つになったという事実が生ずる・・・「主客未分」について、鈴木は「神秘体験」と呼び、西田は「純粋経験」と呼びました。とくに西田は主客を統一させているものを、「一般的或者」「精神の根底にある不変的或者」「ブラーフマン」「神」などと呼びました。普通の意識の働きというものは、二元的にできている。われわれの意識の自覚ということは、覚するものと覚されるものと対立している。ここに意識というものが実際に行われるのである。しかしこの覚するものと覚されるものが、一つになった世界に入らないと、神秘的体験というものができないのである。そこで、これに追い込む方便として、この二つになっているものを、二つにならないようにする方法を考えなければならぬ。この方法が公案というものである。その公案の初めの作り方は論理の働きが出来ないようになっているのである。
(鈴木大拙、「宗教経験としての禅」『禅とはなにか』、岩波文庫、108〜109頁)
純粋経験の事実としては意志と知識との区別はない、共に一般的或者が体系的に自己を実現する過程であって、その統一の極地が真理であり兼ねてまた実行であるのである。かつていった知覚の連続のような場合では、未だ知と意と分かれておらぬ、真に知即行である。ただ意識の発展につれて、一方より見れば種々なる体系の衝突のため、一方より見れば更に大なる統一に進むため、理想と事実との区別ができ、主観界と客観界とが分かれてくる、そこで主より客に行くのが意で、客より主にくるのが知であるというような考えも出てくる。知と意との区別は主観と客観とが離れ、純粋経験の統一せる状態を失った場合に生ずるのである。・・・完全なる真理は個人的であり、現実的である。それ故に完全なる真理は言語に言い現すべきではない、いわゆる科学的真理のごときは完全なる真理とは言えないのである。
(西田幾多郎、『善の研究』、岩波文庫、45〜46頁)
神とはこの宇宙の根本をいうのである。・・・余は神を宇宙の外に超越せる造物者とは見ずして、直ちにこの実在の根底と考えるのである。同上、221頁)わたしは、このような思想に、きわめて非仏教的なもの(形而上学的領域に関する断定)を見ます。そのうち、これらについて、考察を深め、語っていくこともあるかもしれません。そのときは、よろしく。純粋経験の事実が唯一の実在であって神はその統一である。(同上、234頁)
援護射撃およびご意見、ありがとうございました。