空の思想、縁起論について
佐倉さんにとって大変な労力を注いだ論文と思い、興味深く拝見いたしました。 近年このような思考を公開して行うなどという、勇気ある行動はなくなったものと 思っておりました。
さて空とは[無]自性であるとありましたが、自性する存在があるときこの論は、 崩壊するかも知れません。 そこで「空間と時間に自性が有るや否や」という質問をしたいのですが。 否というお答えでしたら、どのような縁起によるものか知りたいのです。
佐倉さんの論文は難しすぎて分からないところが 多いのですが(単にわたしが頭が悪いだけですが)、
空間と時間に当てはめて考えると、 空間に無限性が有れば自性していることになり、 過去があるから現在があり未来が有る、 未来があるから現在があり過去が有ることになりますが 論理式に当てはめるとどのようになるのでしょう。
時の流れはいかなる縁起によるものか教えてほしいのです。
縁起とは時の流れのように最初からプログラムされているのでしょうか。 最初にゼロと無限の概念を生んだインドにおいて産まれた仏教に この概念はどのように取りこまれているのかもお願いします。
(1)時間論
ナーガールジュナの時間論は、『中論』の19章「時の考察」に非常に簡単に述べられていますが、ここで「時」とは「三つの時(三世)」すなわち、過去・現在・未来のことです。これは仏教だけではなく一般にインドの思想のすべてに当てはまるものです。田端さんが想定されているようなすべての事象の背景としての「時の流れ」としてではなく、このようにインドでは「時」が「三つの時」として理解されている事実が、ここでは、ナーガールジュナの縁起説(すなわち彼の自性主義批判)にとって非常に都合のよいものとなっています。
もし自性論を認めれば、ものの自性は自立・独立・永存していることになりますから、過去・現在・未来はそれぞれまったく別の事象を指しているのか、それとも同一の事象を指しているのか、ということになります。ところが、もし、それぞれが同じものを指しているとすると、過去も現在も未来もその区別がなくなってしまうという受け入れがたい事態に落ち込んでしまいます。他方、それぞれがまったく独立した事象であるとすると、明らかに認められる過去と現在と未来の関係が、全く説明できないという別の受け入れがたい事態に落ち込んでしまいます。こういう受け入れがたい事態に落ち込んでしまうのは、もともと、時に自立・独立・永存の自性を想定するという間違いを犯しているからだ、というのがわたしの理解するナーガールジュナの批判(1節から3節)です。
もう一つの興味深い批判(6節)は、「もの」と「時間」との関係に関するものです。
もしも、なんらかのものに縁って時間があるのであるならば、そのものが無いのにどうして時間があろうか。しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるであろうか。(中村元訳)「時間はない」というのがナーガールジュナの結論ですが、もちろん、「時間は自性として存在していない」、という意味です。これをわたしなりに具体例を挙げて解説してみますと次のようになります。
たとえば、ふたりの子どもがかけっこをしているとします。ゴールにいる人が、まずA君が到着し、そのあとB君が到着したことを見ました。ここで「A君の到着」という事象と「B君の到着」という事象の間には、先後関係があることが認識されます。この先後関係のことを「時」というわけです。「過去・現在・未来の三世」とは、事象の先後関係のことに他なりません。さらに、A君とB君がかけっこをしている間にC君はブランコに乗って遊んでいたとすると、ブランコの「振り」の数で、A君とB君の到着の先後関係を数量可することができます。たとえば、A君が到着してからC君が「3振り半」したときB君が到着した、といった具合です。これが時計の原理です。つまり、時間という何かがあって、水が川を流れるように、存在の背景でそれが流れているのではありません。あるのは、「A君の到着」という事象とか、「B君の到着」という事象とか、「C君がブランコに乗って遊んでいた」というような事象とそれらの間にある関係だけです。これらの事象がなければそれらの先後関係、すなわち「時間」もありません。このことをナーガールジュナは
なんらかのものに縁って時間がある・・・と言っているわけです。つまり、田畑さんが想定されているような、事象の背後に「時間」という背景が事象とは別に存在していて、それが「最初からプログラムされている」というようなものではなく、むしろ、ものから離れて時間は存在しないというのがナーガールジュナの語る時間です。
ナーガールジュナは、さらに、そういう個々の事象(もの)というものも、それ自体で自立しているのではなく、さまざまな原因や条件に依存しているので、どこまでいっても、他に依存しないで自存するものはない、というぐあいに、自性論者の逃れ道をふさいでしまいます。それが、
しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるであろうか。という後半の部分の、いわば「だめ押し」とでもいうべき批判になります。
まとめると、ナーガールジュナの時間論は次のようになります。
(イ)「先(過去)」とか「後(現在・未来)」は独立した別々の存在でもなく、また、同一存在の単なる別名でもない。それらは依存関係(縁起)をしめす。 (ロ)先後関係そのもの(時間)も、事象に依存している。だから、事象がなければ時間もない。 (ハ)時間が依存しているところの事象さえも、それ自体で成立しているのではなく他に依存している。 このように、時間はさまざまなレベルの縁起によって成立している。
(2)空間論
わたしは、ナーガールジュナが特別に空間について語っている資料を知りませんが、上記にあげた「時の考察」の章のなかで、「過去」が「現在・未来」に依存しているという論証のすぐ後、つぎのように言っています。
これ[過去が現在・未来に依存しているという論証の例]によって、順次に、残りの二つの時期(現在と未来)、さらに上・下・中など、多数性などを解すべきである。(4節)この「上・下・中」が空間に相当すると考えられます。したがって、時間が「過去・現在・未来」という事象の先後関係として理解されるように、空間も「上・下・中」あるいは「左・右」などの物の位置関係として理解できる、と考えてよいのでないかと思います。つまり、ナーガールジュナが一つの例をあげて「あとも皆同じである」として残した空間論の宿題を、わたしなりまとめてみますと、
(イ)「上・下」「右・左」は独立した別々の存在でもなく、また、同一存在の単なる別名でもない。それらは依存関係(縁起)を示す。 (ロ)「上下・左右」の位置関係そのもの(空間)も、事物に依存している。だから、事物がなければ空間もない。 (ハ)空間が依存しているところの事物さえも、それ自体で成立しているのではなく他に依存している。 このように、空間はさまざまなレベルの縁起によって成立している。というようなことにでもなるのではないかと思います。
このように、時間とは「先後関係」のことであり、空間とは「位置関係」のことであって、時間や空間は事物の背景として、事物とは別に存在している何かではなく、事物の間にある先後関係や位置関係そのものにすぎない、というのが、わたしの理解するナーガールジュナの時間論・空間論です。したがって、言うまでもないことだと思いますが、「時のながれ」というようなものをナーガールジュナは認めていません。彼にとって、流れるような何かがあって、それを「時」と呼んでいるのではないことは明らかだからです。
(3)「始め」の概念
このように、ナーガールジュナは、なんでもかんでも縁起として解釈してしまうので、ナーガールジュナの思想は「始めに縁起ありき」である、と解釈する仏教学者もいます(たとえば、長尾雅人博士)。ですから、
縁起とは時の流れのように最初からプログラムされているのでしょうか。というご質問がでてくるのもやむを得ないと思います。しかし、ナーガールジュナはどこにも、まず縁起があって、それから、すべてが続く、というようなことは、どこにも、書き残しておりません。むしろ「始め」とか「最初」という概念そのものが、縁起を否定するものとして、しばしば否定されています。「初めがある」という主張は、原因や条件なしに事象があることを意味するからです。これは、決してナーガールジュナだけに限らず、初期の頃から一貫して、「始め」の概念は因果関係・縁起を否定するものとして、仏教では認められることはありませんでした。世界とか存在に関する「始め」とか「最初」という言葉ははなはだ非仏教的な概念と言えます。
ある古い仏典には、ひとりの弟子が、「死後の世界はあるか」とか「世界は永遠であるか」とかなどについて教えてくれなければわたしは教団を去る、とブッダに文句を言う場面がありますが、ブッダは、そのような事柄は人間の経験的知識の領域を越えるものとして、それらについて語ることは避けました。そのときの、「わたしが説かないことは説かないと了解せよ」というブッダの言葉が示すように、「世界の始め」とか「無限の世界」とかという、形而上学的存在に関しては語らず、というのが仏教の長い伝統です。したがって、すべては縁起である、というナーガールジュナの主張も、「初めから」という意味ではなく、「見渡す限り」という意味における主張と解すべきだと思います。