1 与謝野晶子の短歌に寄せて
佐倉さんの文章の中で、ご自身の「死後の世界」について、与謝野晶子の短歌
劫初より造りいとなむ殿堂にに寄せて書かれたものが印象的でした。
われも黄金の釘一つうつ
与謝野晶子が歌っている「殿堂」というのは、死後日本文学史に自分の名前が残るだろうなどという意味ではなく、万葉集にはじまり王朝の和歌の伝統、蕪村の俳諧明治の短歌革新の歴史を一貫して流れている生命に自分も与っている喜びを歌ったものと思います。
その喜びは、過去形や未来形ではなく、常に現在形で語られるものと思います。
佐倉さんが次のように述べていらっしゃる文章、非常に共感を持って読みました。
増谷文雄氏が思いを馳せておられる「死後の世界」というものが、死後に氏が行く世界のことではなく、死後に氏があとに残して行くこの世界、つまり「人類の運命や世界の成りゆき」のことだ、ということです。わたしはうまれてはじめて仏教の「無我」という言葉>の意味がわかるような思いがしました。同時に、「死後の世界」というと、ただちに、死後における自分の運命や成りゆきのことしか思いを馳せ>ぬ思想が、とても貧弱なものであるように思うようになりました。エゴイズムの影を引きずった儘、来世や神について恣意的な空想をめぐらせる「宗教家」よりも、自分があとに残していく世界と、そこに住まう人々を配慮できる「俗人」のほうがずっと尊いと思いますね。これは、別に仏教とか、キリスト教とかに関係なく言えることでしょう。
ところで、前回の私の投稿に対して、御返事を頂きありがとう存じます。このHPをみて「来訪者の声」に投稿される方は多数にのぼりますから、佐倉さんが、その一つ一つに、誠実に応対されているのを見て、非常に感銘を受けております。
龍樹の涅槃論についてお書きになる予定はないとのことですので、ご興味を持っていただくために、浅学を顧みず、私の理解するところをお伝えします。
2 龍樹の涅槃論
涅槃(ニルバーナ)について、「小乗」仏教では「生死からの解脱」という考え方を持っていたように思います。生死(サムサーラ)とは過去世、現世、来世のの輪を永遠に循環輪廻する無明(無知の闇)の世界です。
神々への信仰が、この無明から我々を救済するわけではありません。ヒンズーの神々は、希臘の神々と類似していて、人間の持たぬ様々な超能力を持ってはいるものの、嫉妬、闘争心などの人間的な弱点をも持っており、基本的には、この無明の世界に属しているのです。
ゴータマブッダは食中毒で死んだと原始教典に率直に書かれているように、神々ならぬただの人間に過ぎませんが、神々をすら越える「法」に「目覚めた人」として、神々以上の「覚者」という位置づけでしょう。
生死の世界には頼るべき何ものもない、そこにあるものは自立して存在できる実体ではなく、徹底的に虚しきものにすぎない---これを特徴付けるものが縁起(依存関係による生起)であったわけですが、涅槃は、すくなくも小乗仏教ではそのような生死の世界を超越するものとして了解されていたと思います。
龍樹のラジカルな所は、縁起=無自性=空性という仏教の基本を生死の世界だけではなくて、生死と涅槃との関係にも適用した点でしょう。(小乗では、人空のみを説いて法空を説かなかったと言われる理由)
もっとも、倶舍論をよめば分かりますように、「小乗」といっても原始仏教の後継者として、煩瑣とはいえ、優れた思索の跡を伝えています。涅槃は、段階的な絶えざる修行の結果、選ばれたごくごく少数の聖者にのみ恵まれるという教えは、それなりに尊いものです。
涅槃は、凡愚の徒には到達できぬ理想ではあっても、それは、日々の地道な実践を照らし出す法灯明の源泉であったわけで、修道を抜きにして天啓のごとくある日突然に人々に恵まれるという安直な考えは通用しませんでした。
更に、仏教では、「来世において救われる」という思想が当初から存在しなかったことは注意すべきでしょう。来世というのは生死の一部なのですから、われわれのめざすべき終着駅にはなりません。
仏教というのは、本来は、現世利益の呪術に頼ることもしないし、来世の幸福で現世の苦しみにあえぐ大衆の不幸の帳尻を合わせることもしないものなのです。
我々の苦しみの原因を認識し、無知を克服し、その原因を除去するために、地道な努力を一歩一歩積み重ねるという根本的な姿勢を、原始仏教の四聖諦の教えの中に見ることが出来ます。倶舍論といえども、このような仏教の基本思想を、その時代のコスモロジーを背景としその時代の言語で語ったものなのでしょう。
しかし、小乗仏教には、基本的な制約が在りました。それは、「出家」の仏教、エリートの為の仏教であったということです。 彼らが究極においてめざしていた涅槃は、人々が苦しみ呻吟している「この現実世界」からの「逃避」という色調を脱することが出来なかった点です。解脱した仏陀は、もうこの世に生をうけることはない、完全に生死の世界から姿を消すと理解されていました。
龍樹は、このような小乗仏教を更に越えていく思想を鮮明に提示します。それは、難解な思弁のように見えても、本質的に「在家」の信徒を勇気づけるメッセージを含んでいたように思います。その典型的なものが、観涅槃品の次の句でしょう。
19 生死は涅槃にたいしていかなる差別もなく、「生死からの解脱」と特徴付けられる涅槃理解がここで、退けられます。我々が生死を繰り返している「この世界」を離れて別に、なにか「永遠なる」涅槃の世界なるものが有り、そこに我々が行くわけではない涅槃と生死の両者には寸毫の差別もない--これが中論の根本的メッセージのように思われます。
涅槃は生死にたいしていかなる差別もない20 涅槃の究極なるものは即ち生死の究極なるものである。
両者の間には、最も微細ないかなる差別も存在しない
(1)与謝野晶子
与謝野晶子が歌っている「殿堂」というのは、死後日本文学史に自分の名前が残るだろうなどという意味ではなく、万葉集にはじまり王朝の和歌の伝統、蕪村の俳諧明治の短歌革新の歴史を一貫して流れている生命に自分も与っている喜びを歌ったものと思います。まったく、同感です。その喜びは、過去形や未来形ではなく、常に現在形で語られるものと思います。
(2)涅槃論
「涅槃」と「生死」が別々のものではない、という主張は、確かに、ナーガールジュナがしばしば行うところです。要するに、「救い」とはこの世から別の世界に逃れ行くことではない、という主張だろうと思います。ご指摘の通り、縁起論からしても、四諦論からしても、人の悲苦には原因があり、その原因を見極め、それを取り除く具体的な行動こそなすべきことであるわけですから、まさに、
仏教というのは、本来は、現世利益の呪術に頼ることもしないし、来世の幸福で現世の苦しみにあえぐ大衆の不幸の帳尻を合わせることもしないものということになります。
(3)出家論
出家と在家の問題は、歴史的問題であって、仏教の本質に属する問題ではないだろうと思います。縁起論や四諦論を仏教の本質と考えると、そこから、出家の必然性を、論理的に、直接導き出すことはできないからです。実践仏教(つまり、人の悲苦には原因があり、その原因を見極め、それを取り除く具体的な行動)の一つのアプリケーションとして、出家をする人々がいる、ということだろうと思います。
しかし、出家の思想には、やはりどこか「この世を逃れる」側面があるのも否定できません。もし、出家が「この世を逃れる」、あるいはその準備のようなものであるならば、それは、縁起論や四諦論などの仏教の本質的な思想から考えると、きわめて非仏教的なものと考えざるを得ません。地獄をなくすために、おのずから地獄におもむかんとすることこそが、仏教徒の本来の姿勢であるはずだからです。