私は幸福の科学の会員の加納と申します。大川隆法主宰の書物を通じて仏教の骨子・ 総論を学びました。ご存じと思いますが、人間は永遠の生命を持ち、この世とあの世 を輪廻転生し、魂修行をしている霊的存在なのである。という幸福の科学の基本的世 界観をベースに考えますと、空、縁起、中道等従来難解とされていた仏教の中核的教 えの意味が、一応頭の中では、鮮やかに矛盾することなく理解できます。ただし、こ れらは、悟りの言葉であるので、知性、理性だけでは決して真の理解は得られない、 やはり悟性が必要であり、奥は深い。故に私も分かったなどとは、決していえません
。いずれにしましても、総論を学んだのみであって、各論を専門的に学んだことのな い私にとって、佐倉さんのこのホームページには、敬意をもっております。竜樹の原 書に挑まれるということは、私にとって想像を絶する世界です。とにかくすごい人が 世の中にいらっしゃるもんだと感激しております。一応、空の思想方法論については 、何とか私でも理解出来ましたので今後の展開を期待しております。
参考までに竜樹に言及のあった箇所を紹介させていただきます。〜竜樹は、如来界の 人であり、キリスト教的には、マルチンルター的立場に立つ人でした。大乗仏教中観 派の始祖とも言われておりますが、その著「大智度論」や「中論」に見られるように 、竜樹の考え方の中心は、二点に集約されます。第一点は、釈迦の仏教を出来るだけ 整然とした形で、後の世の残すべく、体系化すること。第二点は、地上にでる前の実 在界の竜樹が、キリスト教の愛の思想に感化を受けていたので、その愛の思想を仏教 的に解釈し直して、衆生済度の大乗仏教を起こすこと。以上のことでした。〜「新・ 黄金の法」p160大川隆法著
佐倉さんの中道に対する考え方もご披露していただければと思っています。
空の思想「自性論」の完成が遅れてご迷惑をおかけしています。もうしばらくお待ち下さい。
確かに、ナーガールジュナ(竜樹)は、ブッダの古い教えに戻ろうとしていた形跡があります。「縁起論」で少し触れるつもりですが、縁起の思想はおそらく仏教の思想のなかでもっとも古い教えの一つです。中村元教授によれば、ブッダの悟りの内容は実はこの縁起の思想であった、といいます。僕も、そうではないかと思います。というのは、いわゆる原始仏典の一つとして知られ、その中でも最古の「スッタ・ニパータ」には、この縁起の思想が顕著でだからです。そして、ナーガールジュナはこの「スッタ・ニパータ」に見られるような縁起の思想を引き継いでいるのです。
ただ、ナーガールジュナが「衆生済度の大乗仏教を起こ」したかどうかは、僕には疑問です。もちろん、ナーガールジュナの批判の主な対象となったのは、後に大乗仏教者が、小乗仏教と呼んで批判した仏教学派の一つであるサヴァスティヴァーダ派(説一切有部)です。しかし、ナーガールジュナを大乗仏教の祖師として祭り上げたのは後代の仏教徒であって、彼自身はその主著において、どこにも「大乗仏教」の立場を語りません。例えば「妙法蓮華経」などの多くの大乗仏典に特徴的な「大乗対小乗」という図式を、ナーガールジュナの著作に見つけることはできません。また、大乗仏教の特色である菩薩の思想や般若波羅密の思想もありません。それどころか、先に挙げた縁起の概念などの例に見られるように、積極的に小乗仏典から、その教義を「ブッダの教え」として受け継いでいます。仏教を大乗と小乗に分け、ナーガールジュナを大乗の味方に位置づけるのは、ナーガールジュナの思想を誤解する危険があると思われます。実際、後代の大乗仏教徒は現在に至るまで、自分たちの宗派の教えを権威づけるために、あるいは正当化するために、しばしばナーガールジュナを利用しています。それは、一方ではナーガールジュナの影響がいかに大きかったかを示すものですが、他方では、実像のナガールジュナを見えにくくしています。ナーガールジュナに関する書ではなく、ナーガールジュナの書が必要となるわけです。
ナーガールジュナが「キリスト教の愛の思想に感化を受けていた」というようなことは、客観的根拠がないので、僕にはまったく信じることができません。
中道に関しては、僕には語るべき研究がありません。したがって、僕の中道に関する理解はきわめて常識的なものです。中道とは、仏教の初期の時代には、快楽主義と禁欲主義の両方の極端を否定する、仏教独自の求道の姿勢のことを示していたと思われます。伝説によれば、ブッダが王家の王子として生まれ、何不自由なく、あらゆる美しいもの、快いものに囲まれて生活していたが、心に満足は得られず、その生活から抜け出して(快楽主義の否定)、様々な宗教的苦行を行ったが、それらによっても悟りに至ることはできなかった(禁欲主義の否定)。そこで、断食苦行を止め、勧められた食べ物を食べ、身体に元気を取り戻して瞑想をしたところ、初めて真の悟りに至ることができた、と言われています。このよく知られた伝説の中に、人が生きる上での正しい知識を得るためには、快楽主義も禁欲主義も避けるべきである、という初期の中道の思想があると思います。
この「両極端を避けて、真ん中を行く」という思想は、後にはいろいろな分野に応用されるようになります。例えば、現代の仏教徒に肉食は許されるか、という問題がありますが、これは、肉食行為が、生きるものすべてに慈悲の心をもつべきとする仏教思想に反するからです。ところが、それでは、肉食するものは仏教徒ではないのか、彼らは地獄に行くのか、といえば、そこまで言い切る仏教徒もいないようです。推進はしないが、肉食はゆるされている、というのが現実です。現代の中道思想のひとつです。
ナーガーラジュナに関して言えば、彼にとって中道とは、存在論や認識論に関する仏教の哲学的見解のことです。そこで、彼の学派は「中観派」(マジャーミカ)と呼ばれています。彼の主著も「中論」(マジャーマカ・カーリカ)です。いわば哲学的中道主義なのです。「空の思想」に関するエッセイのなかで、僕はこれから説明していくつもりですが、簡単に言えば、存在の本質を「有」とする立場と「無」とする立場を、両方とも極端論として避ける立場が彼の存在論です。また、存在が観察者に依存しないで独立してあり得るとする「実在論」も、存在は観察者の観念にすぎないとする「観念論」も、やはり両方とも極端論として避ける立場が彼の認識論です。このような彼の哲学的中道主義を説明するのが、「空」(スーニャタ)の概念であり、「縁起」(プラティーチャ・サムットパーダ)の思想なのです。そして、これらすべてを理解するための鍵のひとつが「自性」(スヴァバーヴァ)という概念です。
簡単で申し訳有りませんが、以上のようなものが僕の理解する中道思想です。