こんにちは佐倉さんのHPはよく読ませていただいてます。 このページをみてから、仏教に興味をもったのですが、いろいろと調べてみると仏教 では性というものを否定していますよね。 これは一体どういうことなんでしょうか。私自身以前から性というものに少しは罪悪 感があったのですが、この問題に出会って以来、自分の行動をどうしていったらいい かよくわかりません。
佐倉さんはどう考えてらっしゃるのでしょうか?恥ずかしい質問かもしれませんが、 大事なことだとも思うので、答えてもらえると幸いです。
最後に 佐倉さんの自分で見、考え、導き出した結論はとても貴重なものだと思いま す。これからも頑張ってください。
1.仏教は性を否定している?
いろいろと調べてみると仏教では性というものを否定していますよね・・・
「仏教」という言葉で指されるものは非常に複雑で広大な領域を指していて、性についてもさまざまな立場があります。また、初期の仏教から今日の仏教に至るまで、どの学派においても、性についての仏教の戒律は、出家者の場合と在家者の場合は異なっています。したがって、そう単純に、「仏教では性というものを否定しています」などとは言えないと思います。
初期仏教においては、出家僧たちはセックスそのものを禁じる戒律を自らに課せましたが、在家者の場合は不倫が戒められました(在家者のための「五戒」の一つです)。
おのが妻をもって満足せず、もろもろの遊女にまみえ、また他人の妻女に行く者、これは敗北への門であると知るがよい。(スッタニパータ、108)
また、大乗仏典の代表的経典の一つである『維摩経』では、ブッダの直弟子であった出家僧の誰よりも、一人の在家者であるヴィマラ・キールティという人物の方が、はるかに優れた境地に到達している、という話になっています。これは、出家というものは解脱のための必要条件ではなく、ひとつの方便に過ぎないという考えを明確にしようとしたものです。
このことに関連するものとして、スマナサーラ長老の「農業をしながら、悟れます」に関するお話なども参照してください。
仏教は出家主義と言う訳ではありません。社会から逃避することも、社会を非難することも、否定することもありません。出家した人々も社会とうまく付き合っていたのです。仏陀が出家に解脱の道を語ったのではなく万人に解脱の道を語ったのです。生きている上で起きてくる、解脱を妨げる障害が出家にも在家にもあります。それらを平等に戒めています。悟り、解脱というこころの転回がだれにでも可能です。 その気になれば、子供を育ているお母さんにも、会社へ出勤しているお父さんにも、学校へ通っているお兄ちゃんにも悟ることが可能です。そして、真言密教のネパールや浄土真宗の日本では、僧が妻帯するのはむしろ当たり前のこととなっています。(スマナサーラ長老、日本テーラワーダ仏教協会の掲示板、『皆の声』より)
しかし、親鸞のばあいは特筆に値します。
親鸞は、師法然の門に入って間もなく、法然の思想の帰結を、師法然の限界を超えて進もうとしたようである。覚如の『親鸞伝』は、建仁三年(あるいは建仁元年ともいう)親鸞に六角堂の救世観音が「行者。宿報ありて女犯せば、われ玉女の身となりて、犯されん。一生の間能く荘厳して臨終に引導して極楽に生ぜしめん」という偈を告げたと伝える。「仏教史上始まって以来の大胆極まる思想」と梅原さんは云われますが、8,9世紀のインド仏教に目を向けると、セックスそのものを儀礼に取り入れたタントラ仏教、いわゆる「左道密教」といわれる仏教さえあります。大乗とも一線を画するということで「金剛乗」とも呼ばれる密教では、「人間の煩悩・情欲は克服・抑圧さるべきではなく、尊重さるべきである。不純な愛欲を一切衆生に対する慈悲にまでたかめればよい」(中村元、『インド思想史』、215頁)ということにもなっているのです。六角堂の救世観音は聖徳太子の化身であると伝えられるが、その偈は実に大胆な言葉である。修行者よ、もしおまえがどうしても情欲を押さえられずに女を犯したいなら、私が女の身となっておまえの欲望を満足させてやる。おまえが生きている限りは人生をはなやかでおごそかなものとし、そしておまえが死ぬときには私はおまえを導いて極楽浄土へ連れていってやろうという意味である。
一体救世観音がほんとうにこのような偈を語ったかどうかは疑問であるが、青年親鸞は確かに救世観音がそのように語るのを聞いたのであろう。親鸞みずからが書いたというこの偈文が、現在まだ真宗高田派の総本山、専修寺に残されている。これはおそらく親鸞の妻帯宣言だと思われるが、勇敢にも彼は師法然が理論においてのみ行き着いた結論を、実践において師法然より一歩先に進もうとしていたのである・・・。
[師法然]はいってみれば愚者をあこがれる賢者であり、悪人にあこがれる善人であった。しかしその弟子親鸞は、その矛盾を実践において解決しようとする。彼自身が悪人に、肉食妻帯の僧になろうとするのである。肉食妻帯の肯定。彼は大胆にも釈迦以来のきびしい仏教の戒律を公然と破ろうとするのである。しかも釈迦と阿弥陀仏の名において。それは仏教史上始まって以来の大胆極まる思想なのである。
(梅原猛、『歎異抄』解説、講談社文庫、178〜180頁)
このように、仏教というものの表面をちょっとなでただけでも、「仏教では性というものを否定しています」という一言では「仏教と性」については語り尽くせぬことが明らかになるでしょう。要するに、仏教は単なる禁欲主義では片づけられない、ということです。それは、快楽主義と禁欲主義の両極端を否定した<中道>というブッダ自身の思想に端を発するのです。
2.性とは何か
私自身以前から性というものに少しは罪悪感があったのですが、この問題に出会って以来、自分の行動をどうしていったらいいかよくわかりません。 佐倉さんはどう考えてらっしゃるのでしょうか?生物の繁殖方法には基本的に二つあります。一つは、アメーバやゾウリムシやバクテリアの例に見られるように、自らの生体の一部からコピーを造って繁殖する無性生殖(クローン)と、二つの生体の遺伝子を掛け合わせることによって新しい生命を造り出す有性生殖(セックス)です。
こんにちでは、地球に生命が現われたのはおよそ35億年前と想定されていますが、生体が有性生殖を始めたのは10億年ほど前にすぎません。この変化は進化の重大なステップとされています。というのは、無性生殖で生まれる新しい生体はもとの生体とまったく同じ遺伝子を持ったクローンですが、有性生殖によって生まれる新しい生体は、もとの二つの生体(両親)のそれぞれの遺伝子を半分ずつ受け受け継ぎますから、どちらの親とも異なるまったく新しい遺伝子をもった生体です。その新しく生まれた生体がさらに有性生殖によって新しい生命体を造り出せば、その新しい生体は、両親の遺伝子とも、両親の両親の遺伝子とも異なる、さらに新しい遺伝子を持った生体が造られることになります。つまり、有性生殖による繁殖は、種内における多様な個体の出現という結果を生じることになります。
この個体の多様性が種の生存率を高めると考えられています。環境は常に変化しますが、種がその変化する環境にうまく対処して生き延びていくためには、種内にさまざまな性質を持った個体があったほうが有利だからです。つまり、有性生殖(セックス)の意義は多様性の創出にあると考えられます。
人間という種が生き延びていくことが、他の種にとって良いことなのかどうかわかりませんが、有性生殖(セックス)は、人間という種が生き延びていくためには、非常に有効な手段と思われますから、その点から判断すると、どんなに厳しい戒律を作ろうが、どんなに性行為が軽蔑されようが、それでもセックスしたいという人間の欲望を抹消することができないという事実は、実に理に適っていて、とてもよいことだと言えるでしょう。