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まず仏教について基本的な考えを教えてください。私は釈迦が説いた(仏教理論ではなく教えとしての)修行、「八正道」あるいは「ボン行」(Brahmacarya)の根本は「一生の間、死ぬまで性行為をしないこと」だと解釈しています。でなければ、彼がその弟子に強制したのはなぜか。なぜ他の国ではその修行者である僧が妻帯せずいるのか(日本では親ラン以前そうでしたが。)そうすると、一体、釈迦のいう八正道という教えは一般の人間の「宗教」と成り得るのか。

当り前の話しですが、みんなこの教えを守ると人類は滅んでしまいます。 それともこの解釈は間違っているのでしょうか。

井戸康夫


まず仏教について基本的な考えを教えてください。私は釈迦が説いた(仏教理論ではなく教えとしての)修行、「八正道」あるいは「ボン行」(Brahmacarya)の根本は「一生の間、死ぬまで性行為をしないこと」だと解釈しています。
わたしの解釈では、仏教の「基本的な考え」は、苦しみから解放されるにはどうしたらよいか、と言うことに関する教えです。そのために、「八正道」が役に立てば、それを実践するのが仏教であり、「一生の間、死ぬまで性行為をしないこと」が役に立てば、それを実践するのが仏教です。また、それらが、たとえブッダ自身の教えであろうと、苦しみから解放されるために役立たなければ、そんなことは実践しないのが仏教の「基本的な考え」というものです。

わたしの解釈では、「八正道」や禁欲主義から始めて、仏教の「基本的な考え」を考えるのは本末転倒です。 ブッダは宗教を否定したのであって、ブッダの教えを宗教化するのは、ブッダの「基本的な考え」に反すると思います。ブッダの教えを宗教化するのは、宗教的ドグマの奴隷に堕することであって、それは、宗教的ドグマからの解放を教えたブッダに背くものです。奴隷というものは、自分の思うままにならぬ事態を言うのであって、それは、まさに、苦そのものだからです。苦からの解放だけが仏教の本質です。

「どういう主義」 --- それは仏教にはないわけである。「どういう生活」、そんなことはないわけである。ないのがほんとうである。どういう生活をしようといっても、しようがない。・・・心においても身においても、どうせんならんということはない。それが雲水じゃ。固定したものがあってはならぬわけである。・・・この自由自在こそ、人間の一番の幸福であらねばならぬ。それを古人は遊戯三昧ともいうた。人間一生遊んでおればよいけれども、仕事を仕事と思っているから日雇い賃の値上げを要求する。わたしはちっとも値上げしはせぬ。労働基準法に外れるほど働いて、朝四時から晩の十時まで座禅、提唱をする。家におれば、夜一時まで本を読まねば明日の商売にさしつかえる・・・ということで、精いっぱい。労働基準法も何もあったものではないけれど、これは遊びじゃからなんでもない・・・

(沢木興道、『沢木興道全集 第三巻』、190頁)

比丘たちよ、教え(法)というものは筏(いかだ)のようなものであることをなんじらに示そう。・・・

譬えば街道を歩いて行く人があって、途中で大水流を見たとしよう。そしてこちらの岸は危険で恐ろしく、かなたの岸は安穏で恐ろしくないとしよう。しかもこちらの岸からかなたの岸に行くのに渡舟もなく、また橋もないとしよう。そのときその人は、草、木、枝、葉を集めて筏を組み、その筏に依って手足で努めて安全に彼方の岸に渡ったとしよう。

かれが渡り終わってかなたの岸に達したときに、次のように考えたとしよう。すなわち『この筏は実にわれを益することが多かった。われはこの筏に依って手足で努めてかなたの岸に渡り終えた。さあ、わたくしはこの筏を頭に載せ、あるいは肩に担いで、欲するがままに進もう』と。なんじらはそれをどうおもうか?そのひとがこのようにしたならば、その筏に対してなすべきことをしたのであろうか?

そうではありません、師よ。

・・・比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。悪しきものならばなおさらのことである。

(ブッダ、『マッジマ・ニカーヤ』 22)

激流を渡るのに役にたったふるい重い筏が、いま、苦の原因となっているのではありませんか。考えてもみてください。ゴータマ・シッダールタは、セックスもし、子どもも産みました。もし、「一生の間、死ぬまで性行為をしないこと」が解脱のための必要条件なら、ゴータマ・シッダールタは解脱できなかった(ブッダに成れなかった)ことになります。