はじめまして。沖本といいます。(26歳会社員、女です!) 佐倉さんのページはインターネットで仏教について調べていた時に見つけさせていた だきました。とても勉強になりました。 みなさん、すごく深いことをお話なので、こんなことをお聞きするのは恐縮なのです が、ぜひ、ご意見をきかせていただければ、と思います。

私は、今法華経のお寺に縁を結んでいます。 ですが、その教えの内容が理解できず(日常に活かす事ができず)自身でいろいろ調 べている所です。 そこで日本ではメジャーである大乗仏教が実は釈迦入滅後に作られたものであり、直 接釈迦が語ったものではなかったという事を知りました。 (案外、一般の人は知らないのではないでしょうか?お寺でもそんなこと教えてくれ ません。)

いつも法華経で大事だといわれて読経している『如来寿量品第十六』は釈迦は永遠の 存在で唯一無二の存在であるということを説いている、と教えられてきました。 ですが、私の小さい時からの漠然とした考えは仏教では仏、キリスト教では神、等い ろんな神様がいるけれど、実は本当の真理は1つで、それを理解できた人達(キリス ト、釈迦等)が自分なりの解釈で人に伝えたものではないんだろうか? 真理とは一つで実は宗教の違いなんて解釈の違いであって真理には関係ないのでは? というものでした。 また、その真理とは自分の中に有るはずだ、自分に一番必要な物、一番正しい事は自 分の中の真理が知っているのでは?とも考えていました。

こんな考えは仏教的な考えからすると外れたものなのかなぁと思い、私の尊敬する母 が法華経を熱心に信仰しているので、(私は母は人として優れた人なのであまりまち がいはやらかさないと思っています。)やはりよくないのかな、と思っていました。

でも原始仏教という一番古く、釈迦自らの言葉とされている物についての説明をいろ いろ読んでみると、「なんだ、一緒じゃないの?」という風に思いました。 案外、ニューエイジ的思想だったんじゃないか?と。 (違うところがあれば教えて下さい。)

今の私の考えでは、
★毎日幸せに生きる為には『中道』が必要である。
★その為には『八正道』を実行することである。
(正しい、ということにいろんな判断があるかと思いますが、自分の心の奥底を見つ
め、最善をつくす。)
★自分から出たものが自分に帰ってくる。そして偶然というものはなく、すべて理由
がある。
★人は真理を得るまでまたこの世に生まれてくる。(輪廻転生)
★その中で自分が真理に近付く為にいくつかの課題(業カルマ)を自らあたえている。
やっとここで本題なのですが、この釈迦の説いた真理の追求(私流解釈ですが)の中 で今、日本の仏教ではあたりまえとなっている先祖供養というのはどこに位置付けさ れるのでしょうか? それは釈迦自らが必要だといったものなのか?(違うと思うのですが) 仏壇にむかってお経を上げるという事にどんな意味があるのか?

佐倉さんはどのようにお考えでしょうか?

先祖を供養する、という事がイヤな訳ではありません。 感謝の気持ちを捧げる、というのはとても大切な事だと思っています。 けれど、お墓をたてないと不幸になる、等最近占いなどでも先祖供養がよく取り上げ られる様に思います。 日本に仏教が根付いてから何年も人々が信じて実行しているその思いというのは大き な力を持っているのではないか、とは思います。 私も読経すると心がしゃんとする気がします。

いきなり長々と申し訳有りません。 お返事をいただけるとすごく嬉しいです。 では。

日本の仏教ではあたりまえとなっている先祖供養というのはどこに位置付けされるのでしょうか?
先祖供養は中国や日本の土着宗教が、外来宗教の仏教に取り込まれて生き続けている古い習慣です。仏陀の中心的な教えとはまったく関係ありません。

日本における読経もずいぶんおかしなものです。お経は仏陀の教えを述べ伝えたもので、それは、他でもなく、仏陀の教えを学ぶためのものですが、それを、日本語でもなく、中国語でもなく、サンスクリット語でもなく、パーリ語でもない、誰も理解できない、中国語で書かれた経典を訓読みして、ただ有り難がるだけというのは、どう考えてもおかしなものです。中には経典(「妙法蓮華経」)のタイトルを、口で沢山唱えればよい、などという目茶苦茶な教えも日本にはあります。呪文を唱えたり、祈りを捧げて、何らかの利益を得ようとすることは仏陀によってはっきり否定されています。経典はわかりやすい日本語に訳し、日本語で学ぶべきだと思います。仏陀の教えを学び、その教えを実践することだけが、仏教だと思います。

仏教が本来生きている生身の人間の生きる方便、知恵としてその存在価値があるということを、ほとんどの日本人が理解していない、という点がそのもっとも由々しき問題でしょう。ただ抹香臭いもの、意味の分からない難しいお経をありがたがるものという仏教に対する偏見、あるいは観念が、そういう理解を妨げているということも言えるでしょう。

仏教は葬式の時だけに必要なものではありません。死者を弔うためにあるものでもありません。死んだ後の世界を案内してもらうためにあるものでもありません。むしろ、仏教はそのようなことにすこぶる消極的です。そう書くと、怪訝な顔をされる方も多いと思いますが、その怪訝顔こそ皆さんが仏教を正しく理解していない確たる証拠です。

(スリランカ仏教、アルボムッレ・スマナサーラ長老、『恐れることは何もない』、泉書房、20〜21頁)