シャローム、神の恵みがありますように。 初めてこのサイトに訪れました。

サイトのタイトルからたいしたことはないだろうと批判的な感情で見ていたのですが、読んでいるうちに深刻になってきました。というのも、信仰者の書く注解とはアプローチの仕方、その姿勢が似ているようでも、精神的な姿勢が大きく異なっていると思ったからです。

質問してみたいのですが、祈ることを実行していますか?それから、すべてのみ言葉を心にとめていますか?

聖書を不完全なものと思われているような印象を受けましたが、答えはおなじみ言葉の中に含まれていると思いました。なぜなら、信じるということは証明されたものを理論的に納得するのではなくて、心から信じるということだと思うからです。

パウロも論理的なことをかなり書いていますが、その心は疑いではなく信仰の方が伝わってきます。パウロ自身も言っている通り聖霊に満たされていたからでしょうが、人を築き上げるため、神と人とを愛するために祈り求める心の姿勢が神の恵みを勝ち得たのだと思います。どちらかというと、特にファリサイ派であったときには難しい人であったと思うのですが、より多くの人を愛するという点では、その理性がその博識がそれだけ多くの人を愛するという度量の基になったと考えます。

聖書にはご存知の通り真実の心の姿勢が多くかかれています。それは証明されて納得するものではなく、心で正しいとわかることです。今では科学こそが人間の築き上げようとしているバビロンではないかという司祭もいます。科学の枠組みで論じること自体がカインと同じさすらい人の姿だと感じます。感じるのであって論証するのではありません。生きていれば現実の中でみことばの真実を悟る、それでいいのではないかと思います。論証できないものを論証できないからといってあざけるのなら、そうしたものの存在を現実の可能性として見込んだ、詩編のあざける者の座に座した幸いでない人の一群に当てはまるのではないでしょうか?

幸いな魂を培うために書かれた神の目的と一致しないような読み方をすることは目の見えない不幸な人であると聖書は言っていないでしょうか?彼らが求めても無駄なことであるというみことばはむしろそうした人の回心を望む慈しみ深い神のみ心の言葉ではないでしょうか?バラムの道に入り愛さないものとなるのではなく、教訓を汲み取り愛するものとなることを神は望んでいるのではないでしょうか。

信仰者の書く注解とはアプローチの仕方、その姿勢が似ているようでも、精神的な姿勢が大きく異なっていると思った
そうありたいと思っています。
祈ることを実行していますか?
わたしは長い間クリスチャンでしたので、もちろん、いつも祈っていました。いまはクリスチャンではありませんので、祈ることはありません。しかし、神の存在や導きを否定しているわけでもありません。
信じるということは証明されたものを理論的に納得するのではなくて、心から信じるということだと思う・・・。それは証明されて納得するものではなく、心で正しいとわかることです。
おっしゃる通りです。信仰とは根拠もないのに真実だと思い込むことです。
論証できないものを論証できないからといってあざけるのなら、そうしたものの存在を現実の可能性として見込んだ、詩編のあざける者の座に座した幸いでない人の一群に当てはまるのではないでしょうか?
わたしは「論証できないものを論証できないからといってあざける」ことはありません。知らないことを知らないと素直に認めず、本当は何も知らないくせにまるで知っているかのごとく語り振る舞うやり方 -- 信仰 -- を捨てただけです。