はじめまして。いつも貴サイトを拝読させていただいております。「聖書の間違い」シリーズで佐倉様のお考えに大変興味を持ちました。
私はプロテスタントの教会にしばらく通いましたが、クリスチャンにならなかった者です。以下に記述することは、一見、佐倉様のサイトの記述に影響されたようにお感じになる箇所もあるかもしれませんが、私が佐倉様のサイトを拝見する以前に考えたことをまとめたものです。
「聖書は神の言葉です。私達は聖書を信じます。」と牧師はおっしゃいました。 聖書の中には、佐倉様がご指摘のとおり矛盾箇所があります。私は全能の神の言葉 である聖書に矛盾があるのは理解しがたいことだったので、矛盾に思う箇所について 尋ねたところ、「許容範囲」と言われました。つまり彼等は、間違った記述箇所が存 在すると分かっている本を「信じている」わけです。私は「信じる」という言葉をそ のような場合に用いたことがないので、自分の日本語と教会で使われる日本語は別物 ではないかと考えました。
「信じる」の定義が佐倉さんのものは、一般にキリスト教会で言われているのとことなっているようなので、佐倉さんは「信じていた」と言われるかもしれませんが・・・。組織には組織独自の言い回しがあります。教会でも独特な言い回しが存在しました。 「交わりを持つ(=親しくする)」「学びをする(=勉強する)」などです。だから、 「信じる」も教会内の独自の言い回しではないか、と思いました。(感想 匿名希望氏 99年2月14日)
せっかく「神を求めて」キリスト教の教会へ行ったのに、言葉遣いの違和感から、洗礼を受けるに至らなかったわけです。その神については聖書には次のように書いてあります。
「なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるのです。それは神が明らかにされたのです。神の目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ人への手紙 1章19節20節)
パウロは、この世界が神によって造られたことを前提として文章を書いています。その根拠は聖書です。しかし、私は「聖書を信じます」とは言えないから、パウロの言う「神」をはっきりと認められませんし、認めてはいけないのです。聖書の神に対して私がとるべき真摯な態度は、決して「イエス・キリストを信じます」と言わないことなのです。
聖書の意味が分からない時は「聖霊様」に祈るとよい、といった意見もありますが、私はまず自分の理解力の弱さと知識の乏しさを責めます。聖書は古い外国のストーリーです。我が国の源氏物語でさえ読みこなせないのに、異文化の数千年前の話を読みこなすのは私にとって至難の業です。中途半端な読みこなしで「神を知った」と言っては、聖書の神を軽んずることになります。
教会に通って得たことは、キリスト教の神の概念、原罪の概念、赦しの概念、そして信仰について知ったことです。これらは私のものの見方を豊かにしてくれました。しかし一方で、それらは私の乏しい知識に新たに付け加えられた考え方にすぎず、「キリストを知って生まれ変わった」りはしませんでした。私にはクリスチャンになる資質はない、と考え、クリスチャンになる努力はやめました。
佐倉様の聖書に対する冷静な見方には敬意を表します。これからも、どうぞお続けください。
谷山
1.許容範囲
矛盾に思う箇所について 尋ねたところ、「許容範囲」と言われました。「許容範囲」の基準は誰がどのように決めるのでしょう。結局、本人が勝手に決めるわけでしょう。つまり、何が神の言葉であるかを、神が決めているのではなく、神について何も知らない人間が勝手に決めているわけです。だから、「聖書を信じる」というのは、結局のところ、「この部分は自分の救いに都合がよい、だから、真理でなければならない」という思いを、別の言葉で言い換えたものにすぎないことになります。「『信じる』も教会内の独自の言い回し」というのは、その通りだと思います。
2.「キリストを知って生まれ変わった」
しかし一方で、それらは私の乏しい知識に新たに付け加えられた考え方にすぎず、「キリストを知って生まれ変わった」りはしませんでした。わたしは、長いクリスチャン生活をとおして、「キリストを知って生まれ変わった」などということはあり得ないことを知りました。ひとは、そんなに変わるものではありません。変わったとしても、別にキリスト教でなくてもあり得るものばかりです。「キリストを知って生まれ変わった」などというものは、単なる主観的な思い込みや信仰の正当化にすぎず、客観的に見れば、クリスチャンもそうでないものもたいして変わるものではありません。かれらは、クリスチャンになった後も、そうでない人と同じように、相変わらず、不完全な罪人です。