ご機嫌いかがですか? ご機嫌ナナメですか?

どこの世界にも一言居士連というのがあり、その一つに嵌っていたので、こちらに来ることができませんでした。

このように聖書の矛盾は無数にあります。したがって、聖書は間違いだらけです。もし、神が全知全能で、間違ったことを語らないとしたら、聖書は神のことばではありえません。神は間違うことができないはずだからです。

(佐倉さんから柴田さんへの2月のご回答から)

神は間違うことができます。その間違いを直すこともできます。どのようにでもすることができます。間違うことができないのは、例えばプログラムされた優秀なコンピューターですが、神はそのようなものではありません。

多くのクリスチャンは、彼らの持っている聖書以外の書には「神の言葉としての権威」を認めません。聖書だけが神の言葉なのです。しかし、その聖書に収められている「ユダの手紙」の著者は、後にユダヤ教やキリスト教が偽典として否定した書のひとつ「エノク書」を、明らかに神の言葉として引用しているのです。

(「偽典を神の言葉と信じた新約聖書の著者」)

ユダがエノク書を神の言葉として書簡に取り入れても全然かまわないと思います。別に、聖書の言葉はオリジナルでなければならないということはないです。四福音書の主イエスの説教のうちのたくさんのものが、イエス以前に活躍したラビたちの言葉と重複すると言われます。しかし、表現は同じでも、意図するところは微妙に違っていたりしますが。四福音書が神の権威を持っているとして、その権威によってラビたちの言葉を、認め、あるいは解釈し直して使っているというだけのことでしょう。

麻生いのり

エノク書が、100%正典とするのにはふさわしくないからという理由で「偽典」と判断されたとしても、90%は問題ない書であって、問題なのはただの10%であるということもあって当然です。

神は間違うことができます。その間違いを直すこともできます。どのようにでもすることができます。
それは不可能です。もし神が、聖書の言うような<全能の神>なら、「どのようにでもする」能力は持ちあわせていません。全能の神は自分が持ち上げることのできないほどの重い石を創造することはできないのです。造れば、神は全能の神ではなくなるからです。全能の神なら、全能であるがゆえにできないことがあるのです。すなわち、神は自らの性質と矛盾する行動はできないのです。

まったく同じように、もし神が、聖書の言うような<全知の神>なら、間違うことはできないのです。「1+2」の正しい解を知っていて間違った解を出すことは全知の神にはできないのです。もし正しい解を知っていて(全知なら当然知っておかねばなりません)、わざと間違った解を出すとしたら、神は、間違っているのではなく、嘘をついているのです。

このように、聖書の間違いをなんとか正当化するために、「神は間違っていると知っていながら間違った情報をつたえることもある」などという短略的な護教論を展開すれば、神を嘘つきにするという、クリスチャンにとって、神が間違うことを認めるよりも、もっと認めにくい高い犠牲を払わなければなりません。

いや、そうではなく、「神は本気で間違うのだ」という護教論を展開すれば、こんどは神の全知性を否定する犠牲を払わねばなりません。

こちらを立てればあちらが倒れる、あちらを立てればこちらが倒れるようなものです。聖書の間違いを正当化するために、「神も間違うのだ」という近視眼的な護教論を展開すれば、たとえ神の言うこと(聖書)でも信用はできないという結論がでてくるのです。

そこで、こういうことになります。ふたつの可能性があります。

前提1 聖書は間違っている。(事実
前提2 神は間違うことのない全知の神である。(一般のクリスチャンの信仰)
結論  ゆえに、聖書は神の言葉ではない。

前提1 聖書は間違っている。(事実
前提2 神も間違う、あるいは嘘をつく。(麻生さんの信仰)
結論  ゆえに、聖書は神の言葉であるかもしれないが、信用できない

麻生さんと違って、ほとんどの聖書主義者にとっては、「神も間違う」とか「嘘をつく」というのは受け入れがたいので、聖書が神の言葉であることを信じ続けるためには、どうしても、「聖書が間違っている」という前提を拒否せざるをえないのです。だから、目の前にあきらかな矛盾を見せられても、黒を白を言いくるめるように、知的良心を麻痺させて、間違っていないといい続けざるを得ないのです。神を嘘つきにしないために、彼ら自らが嘘つきになるのです。

麻生さんの場合のように、神も間違うとか神も嘘をつくということにしちゃえば、聖書が神の言葉であることを信じ続けるためのそのような自己欺瞞に陥らないですみます。ただし、神の言うこと(聖書)はもう信用できない、というもっと大きな犠牲を払わなければなりません。


2.聖書だけが神の言葉であるというキリスト教の主張の根拠がなくなる

エノク書が、100%正典とするのにはふさわしくないからという理由で「偽典」と判断されたとしても、90%は問題ない書であって、問題なのはただの10%であるということもあって当然です。
聖書でない書も神の言葉を伝えている --- ユダのエノク書(偽典、非聖書)引用という事実は、結局、そういうことをクリスチャンも認めざるをえないようにします。聖書とそうでないものを、神の言葉とそうでないものとに区別する根拠はなくなります。つまり、ユダのエノク書(偽典、非聖書)引用という事実は、聖書だけが神の言葉を伝えているというクリスチャンの思い込みが間違っていることを、まさに、クリスチャンが聖書の言うところを信じざるを得ないがゆえに、不可避的に認めざるを得なくするのです。

ところで、現在でも、カトリックやいくつかのプロテスタントがトビト記、ユディト記、マカバイ記第一、マカバイ記第二、ソロモンの知恵の書、シラ書、バルク書などを「正典」に入れているのに、他のプロテスタントやエホバの証人は、それらを「偽典」としています。何が「正典」で何が「偽典」であるかを区別する客観的な根拠はありません。それぞれ個人や宗教団体が勝手に根拠もなしに、そう思い込んでいるだけということになります。それはそうでしょう。麻生さんとおなじように、だれも神(とその言葉)について何も知らないのですから。