はじめまして。

今、”飢餓とChristianity”というテーマで卒論を書いている大学4年生です。

私は、(私も)反キリスト教でした。信仰という名の元に騙されている幸せな人たちだと思っていました。

しかし、本当に神はいることが今年、忘れもしない3月12日に知りました。驚きました。自分の犯してきた罪が許されたことに、そしてこれまでイエス様を無視してきた事にとめどもなく涙が溢れてきました。

ご存知でしょうが、聖書の罪とは、創造主を無視して歩むことです。

今は、真実の中にいる喜びがあります。聖書のことを知らなくっても、悪いことをしても、若くっても、貧乏でも、お金持ちでも、そんなこと関係ないのです。ただ、ただ、神は、私たちが神の愛を受け入れてくれるのを待っているのです。心の扉をノックしているのです。扉のノブは、自分の心についています。開けるか、開けないかはその人にかかっているのですね。

イエス様は、どんなにあなたが否定しても、あなたを愛して、生きておられます。

信仰の押し付けは、意味がないし、できません。でも、クリスチャンになって初めて分かったのですが、愛する人には、天国に行って欲しいし、神様の愛、計画、希望を体験し、知っていただきたいのです。

私も、早く聖書を通読したいです。つたない文章でごめんなさい。こうやって、SakuraさんにE-mailをだせることを感謝しています。

神の祝福がありますように。

Y.S

私は、(私も)反キリスト教でした。
わたしは長い間クリスチャンでした。


しかし、本当に神はいることが今年、忘れもしない3月12日に知りました。驚きました。自分の犯してきた罪が許されたことに、そしてこれまでイエス様を無視してきた事にとめどもなく涙が溢れてきました。
わたしは、自分も含めて、クリスチャンが「神を知った」とか「神に出会った」と言うとき、その言葉の本当の意味は、「知った」とか「出会った」ということではなく、「信じるようになった」ということ(すなわち思い込み)にすぎないことを知りました。すなわち、かれらは<神>について語っているのではなく、自分の救いに都合のよいように心の中に造りあげた<各自の神像>について語っているにすぎないことを知りました。


ご存知でしょうが、聖書の罪とは、創造主を無視して歩むことです。
聖書を書いた人々(イスラエル人)は、地上(古代メソポタミアやエジプト王国)の支配者たる絶対王をモデルに、イスラエルの支配者(イスラエルを外から守る軍神、イスラエルに律法を与える治世神)としてその神像を描いてしまったので、結局、「聖書の罪とは、創造主を無視して歩むこと」になってしまったのですね。独裁者の社会では、独裁者に反することが罰せられるに値する「罪」であり、独裁者に従順なことが恩恵を得るための唯一の手段だからです。

しかし、聖書にはもっと重要で普遍的な掟があります。「人間が造りあげた神像を崇拝してはならない」という掟です。十戒の一番最初の掟です。自分の救いに都合のよいように心の中に造りあげた<神像>を崇拝することは、神でないものを神として崇拝する罪です。聖書を書いた人々は頻繁にこの罪を犯しています。かれらは<事実を知ること>と<勝手な思い込み>を区別していないからです。


ただ、ただ、神は、私たちが神の愛を受け入れてくれるのを待っているのです。・・・イエス様は、どんなにあなたが否定しても、あなたを愛して、生きておられます。
もしそのようなことをあなたが<知っている>なら、あなたは大変な超能力の持ち主です。そうではなく、かつてのわたしや他の多くのクリスチャンたちと同じように、ただ強くそう信じているだけなら、それはあなたの<勝手な思い込み>にすぎません。


クリスチャンになって初めて分かったのですが、愛する人には、天国に行って欲しいし、神様の愛、計画、希望を体験し、知っていただきたいのです。
キリスト教を捨てるということは、(1)人間の知識や経験の届かない領域に関して、本当は何も知らないくせに、まるで知っているかのごとく振る舞うことを止めるということであり、(2)他人の考え方や生き方変えてやろうなどと考える思い上がりを捨てることです。キリスト教を捨てるということは、もう、この二つに尽きると言えます。