先日メールを出した後に知ったのですが、 最早、エホバの証人は、 「1914年を経験した人々が亡くなった後に審判の日が来る」 との説は撤回していたのですね。 失礼いたしました。
さて本題ですが、 Nobuhiro Kiharaさんその他多くの方々が、 科学を聖書批判に持ち込む事は無意味であると語っておられますが、 私は積極的に科学を持ち込むべきだと思います。 その根拠は、 第一に、(疑似)科学を用いて聖書に間違いはないと主張する人々がいる。 こういった主張を吟味し反論する為に科学を用いる事は当然です。 多分、この第一だけを理解されている方が「このサイトは誰に向けている?」等と聞 くのでしょう。
第二、に科学に於ける「確からしさ」は、 聖書信仰に於けるそれとは比べ物にならない程「確からしい」という事。 「神の行為を、不完全な人間に理解する事は無理」 という盲信者の言葉と、 「現代科学ではまだ解明出来ていない」 という科学者の言葉には、雲泥の差があります。 前者は、普遍的な逃げ道に過ぎず、後ろ向きに全ての思考を放棄しているのに対し、 後者は、「いつか解明出来るはず」という前向きな姿勢を示しているからです。 科学が示す根拠は、多くの多角的な検証に耐えた物であり、 聖書盲信者が削除と加筆を繰り返し、 明らかに文脈を無視した曲解を有り難がらせる行為とは次元が違います。
それ故に、人間が、もの(聖書も含める)を検証する際に、 科学を用いる行為は有効と思われるわけです。 科学には根拠が存在しているのです。 もちろん後に覆される可能性がありますが、根拠は一つではないのです。 聖書盲信者はその全てを覆さねば反論とはなり得ません。
つまらないトンデモ本を鵜呑みにして熱弁をふるう情熱があるなら、 少しは科学を勉強して頂きたい。
補足
「可能性」という言葉もそうですね。
科学者なら
「鯨の腹の中で人間が生きられる可能性は0とは言えない」
と思った時、
「では、実験してみよう」
と行動したいはずですが、
聖書盲信者は
「鯨の腹の中で人間が生きられる可能性は0とは言えない」
「だから、聖書は正しいのだ」
「何故だって?」
「神様がそうされたのだ。不完全な人間に理解する事は無理に決まっているじゃないか」
と結論してしまいますよね。
(疑似)科学を用いて聖書に間違いはないと主張する人々がいる。 こういった主張を吟味し反論する為に科学を用いる事は当然です。科学が聖書に不利な発言をするときは「科学は不完全である」などという批判をするくせに、科学が聖書に有利な発言をするときは、なりふりかまわず、「だから聖書は真理だ」などと喜ぶ、そんなクリスチャンの感覚には、いつもいつも、考えさせられます。