この四つの福音書は矛盾しているのではなく、相互に補っているのです。

(1)まずイエスは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれます。(2)それで、周りに居合わせた人々はエリヤを呼んでいるものと勘違いをします。(3)さらに、周りに居合わせた人々の一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとします。(4)他の人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言います。(5)それで、イエスは、旧約聖書が成就したのを知り、「わたしは渇く」と言われます。(6)人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプにつけ、イエスの口元に差し出します。(7)イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言います。(8)その時、既に昼の十二時頃です。全地は暗くなり、それが三時まで続きます。太陽は光を失っています。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けます。(9)イエスは大声で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と叫ばれます。(10)それから、頭を垂れて息を引き取られます。

こう考えると、この部分は何も矛盾しません。


矛盾を調和化するためには、原文から都合の悪い部分を削除したり、原文にないことを追加する作業が必要となります。「K.M.さんによる福音書」も、もちろん、そういう削除と加筆の上になりたったものです。

そこで、削除部分と加筆部分および福音書の記述を勝手に変更してある部分もありますので、それを調べてみましょう。



(1)マタイの福音書と「K.M.さんによる福音書」

マタイの記述(27:46-52) 「K.M.さんによる福音書」
さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」という者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。他の人々は。「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。 まずイエスは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれます。(2)それで、周りに居合わせた人々はエリヤを呼んでいるものと勘違いをします。(3)さらに、周りに居合わせた人々の一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとします。(4)他の人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言います。(5)それで、イエスは、旧約聖書が成就したのを知り、「わたしは渇く」と言われます。(6)人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプにつけ、イエスの口元に差し出します。(7)イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言います。(8)その時、既に昼の十二時頃です。全地は暗くなり、それが三時まで続きます。太陽は光を失っています。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けます。(9)イエスは大声で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と叫ばれます。(10)それから、頭を垂れて息を引き取られます。


比較して気づくことは、まず、マタイによれば、イエスが大声で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と叫んだのは三時であった、となっています。ところが、「K.M.さんの福音書」によれば、「その時、既に昼の十二時頃です」と書き換えられています。これは、ルカの福音書の記述

既に昼の十二時頃であった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。(23:44)
とつじつまを合わそうと無理をしたためでしょう。

次に、マタイによれば、ある人がぶどう酒をイエスに飲ませようと試みますが、他の人々呼び止められ、そのとき、イエスは死んでしまいます。

そのうちの一人が、・・・イエスに飲ませようとした。他の人々は「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。(27:48〜50)
ところが、「K.M.さんの福音書」によれば、イエスは「このぶどう酒を受ける」だけでなく、「成し遂げられた」と言います。これは、ヨハネの記述
人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプにつけ、イエスの口元に差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(19:29〜30)
とつじつまを合わそうと無理をしたためでしょう。また、マタイによれば、イエスは「わたしは渇く」など、どこでも言っていないのに、「K.M.さんの福音書」は勝手に付け加えています。ヨハネとつじつまを合わせるためです。ところが、ヨハネとつじつまを合わそうと無理をしても、後にも触れることになりますが、同時に、ルカの記述ともつじつまを合わそうと更なる無理をしているために、ヨハネが
「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(19:30)
とはっきり書いているのに、「K.M.さんの福音書」によれば、イエスが「成し遂げられた」と言ってからイエスが死ぬまでにはまだ三時間もあります。ルカが
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。(23:46)
などと書いているために、それとつじつまを合わせねばならないからです。イエスが「成し遂げられた」言っても、ヨハネのように、そこでイエスを死なすわけにはいかないのです。



(2)マルコの福音書と「K.M.さんによる福音書」

マルコの記述(15:33-38) 「K.M.さんによる福音書」
昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」という者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。 まずイエスは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれます。(2)それで、周りに居合わせた人々はエリヤを呼んでいるものと勘違いをします。(3)さらに、周りに居合わせた人々の一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとします。(4)他の人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言います。(5)それで、イエスは、旧約聖書が成就したのを知り、「わたしは渇く」と言われます。(6)人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプにつけ、イエスの口元に差し出します。(7)イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言います。(8)その時、既に昼の十二時頃です。全地は暗くなり、それが三時まで続きます。太陽は光を失っています。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けます。(9)イエスは大声で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と叫ばれます。(10)それから、頭を垂れて息を引き取られます。


マルコの福音書はマタイのそれとほぼ同じですから、マタイとの比較について言えることがすべて、マルコとの比較についても言えます。しかし、マルコの記述にはひとつ極めて重要な特徴があります。マルコによれば、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言ったのは、そう言いながらイエスにぶどう酒を飲ませようとした人物と同一人物です。

そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」という者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。(15:35〜36)
ところが、「K.M.さんの福音書」では、マタイに合わせているために、
周りに居合わせた人々の一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとします。他の人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言います。
ということで、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った人々は、ぶどう酒を飲ませようとした人を引き留めようとしたことになっています。



(3)ルカの福音書と「K.M.さんによる福音書」

ルカの記述(23:44-46) 「K.M.さんによる福音書」
既に昼の十二時頃であった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。 まずイエスは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれます。(2)それで、周りに居合わせた人々はエリヤを呼んでいるものと勘違いをします。(3)さらに、周りに居合わせた人々の一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとします。(4)他の人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言います。(5)それで、イエスは、旧約聖書が成就したのを知り、「わたしは渇く」と言われます。(6)人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプにつけ、イエスの口元に差し出します。(7)イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言います。(8)その時、既に昼の十二時頃です。全地は暗くなり、それが三時まで続きます。太陽は光を失っています。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けます。(9)イエスは大声で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と叫ばれます。(10)それから、頭を垂れて息を引き取られます。

ルカは、マタイやマルコと根本的に異なっていて、次に考察するヨハネと同じように、悲劇性(「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」)が完全に欠落しています。ここに見られるように、ルカのイエスの最後の物語は実に簡単なものです。そのため、ルカの記述を「K.M.さんによる福音書」のようなものとするためには、沢山のものが、ルカの記述につけ加えねばなりません。イエスが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んだこと、ぶどう酒を飲まそうとしたこと、イエスが「わたしは渇く」と言ったこと、イエスがぶどう酒を受け「成し遂げられた」と言ったことなど、ルカの福音書にまったく無いことを勝手に付け加えねばなりません。



(4)ヨハネの福音書と「K.M.さんによる福音書」

ヨハネの記述(19:28-30) 「K.M.さんによる福音書」
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の預言が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器がおいてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプにつけ、イエスの口元に差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。 まずイエスは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれます。(2)それで、周りに居合わせた人々はエリヤを呼んでいるものと勘違いをします。(3)さらに、周りに居合わせた人々の一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとします。(4)他の人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言います。(5)それで、イエスは、旧約聖書が成就したのを知り、「わたしは渇く」と言われます。(6)人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプにつけ、イエスの口元に差し出します。(7)イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言います。(8)その時、既に昼の十二時頃です。全地は暗くなり、それが三時まで続きます。太陽は光を失っています。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けます。(9)イエスは大声で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と叫ばれます。(10)それから、頭を垂れて息を引き取られます。

ヨハネにも、ルカと同じように、悲劇性(「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」)が完全に欠落しています。イエスは殺されるのがその使命だったという、死後弟子達の間で広まった思想をヨハネはイエス自身に語らせています。しかし、「K.M.さんによる福音書」は、マタイやルカの記述とつじつまを合わさなければならないため、イエスは、一方では、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」といいながら、他方では目的は達成された、と言わねばならない、新しい矛盾に陥っています。マタイやマルコも、ルカやヨハネも、それ自体の物語の中では、そのような矛盾はないのですが、「K.M.さんによる福音書」では、これらすべてをつじつまを合わせようと無理して一つの物語に仕立て上げているために、このような新しい矛盾が生まれてしまっているわけです。

すでに、指摘しましたが、ここでヨハネは、

イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(19:30)
とはっきり書いています。イエスは「成し遂げられた」と言い、そして、息を引き取ったのです。ところが、「K.M.さんによる福音書」の話では、
イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言います。その時、既に昼の十二時頃です。全地は暗くなり、それが三時まで続きます。太陽は光を失っています。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けます。イエスは大声で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と叫ばれます。それから、頭を垂れて息を引き取られます。
という話に書き換えられています。ルカが
イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。(23:46)
と書いているため、それとつじつまを合わせねばならなかったからです。