佐倉さんと聖書の見解が異なることは残念ではありますが、佐倉さんの文章を読むと佐倉さんが真理を求めてこれに仕え、人生を歩まれているのがよくわかります。

内村鑑三「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」第7章より

私の考えでは、真の寛容とは、自分の信仰に断固たる確信をいだきつつ、あらゆる正直な信念を容れかつ忍ぶことである。いわゆる真理を知ることが自分にできると信じ、同時に真理の全体を知ることは自分にはできないことなのだと信じること、これが真のキリスト教的寛容の基礎であり、人類全体に対する善意と平和的関係のいっさいの源である
寛容の心をもって、佐倉さんが内村鑑三の弟子と言っていること以外に批判するつもりはありません。ただ佐倉さんの説明で佐倉さんが内村鑑三の弟子と言われる気持ちもわかりこれ以上批判はしません。

さてひとつ気になりましたのは、 内村が「人はイエスを信じてのみ救われる」ことを真理であると信じていると言っていることです。「信仰のみで救われる」とよく言われます。ここでの「信仰のみ」とは、「人が救われるのは行いによる」というパウロの時代では律法、ルターの時代では免罪符、に対しての「信仰のみ」であります。信仰が信条化されその信条にそった信仰で救われるという教会の教えに対してプロテストしたのが内村であります。内村の信仰は自分の信仰でなく、神からの信仰でした。信仰は神からの賜物であります。自分で信じていると思っている間は本当の信仰ではないのです、光ほしさに泣く赤子であります。

内村は武士道にキリスト教を接木し、真理を目指しました。私は、それは神の御心であったと思います。内村はアウグスチヌスが否定した万人救済主張しています。それは歎異抄の親鸞のごとくであります。パウロは「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。(口語訳 テモテ第一1:15)と言っています。内村鑑三は「罪人のかしら」と題してこのように言っています。

罪人のかしら 「聖書之研究」1906年4月

キリストを敵に渡せし者、罪人のかしらにあらず、彼を十字架につけし者、罪人のかしらにあらず、人を殺せし者、姦淫罪を犯せし者また罪人のかしらにあらず。罪人のかしらはわれ自身なり。神の恩恵に浴しながら、長くこれを濫用し、善と知りつつも善をなさず、悪と知りつつも悪を避けず、しばしば神の聖霊を消し、その聖意を傷(いた)めまつれり。もし滅ぶべき者あらば、われは彼なり。われは恩恵をこうむりしだけそれだけ、神に負うところの者となれり。もし万人が救われなければ、われは第一に滅ぼされるべし。されども、もし私のような者でも救われるなら、世に救われざる者一人もなかるべし。われの救いは神の恩恵の試験石なり。われみずから救われて、万民の救済を確かめんと欲す。

よって佐倉さんが 内村が「人はイエスを信じてのみ救われる」ことを真理であると信じている言っているのは当たらないと思います。

内村は、「聖書の研究」1918年11月の「聖書全部神言論」で 聖書は一言一句これを信ずべきでない聖書の中には多くの誤りがある。と話し出し結局は余輩は言う、「兄弟よ、安心せよ、聖書は全部神の言なり」と。・・・最も聖書を解したる人は聖書無謬信者であった。聖書有謬説をもってして、世界は動かない。その最もよき証拠は今のキリスト教界の状態である。とまとめています。佐倉さんにとっては、大いなる矛盾でありましょうが。

ps リンクをつけてくださりありがとうございます、内村鑑三「聖書の研究」巻頭英文及び訳文集は未完成で、更新中で、あのままではいかにも完成しているかのように見えたので、(未完成更新中)とあわてて、付けました。

   踏み分くるふもとの道は異なれど 同じ高嶺の月を見るかな (新渡戸稲造) 

山本孝寿


(1)「人はイエスを信じてのみ救われる」

とても刺激的な、内村の「罪人のかしら」の紹介ありがとうございました。とくに、

もし万人が救われなければ、われは第一に滅ぼされるべし。されども、もし私のような者でも救われるなら、世に救われざる者一人もなかるべし。
というのは、あきらかに大乗仏教の菩薩思想ですが、同じころ、内村は「われらの心霊の友はウエスレーなるよりもむしろ法然なり。ムーディーなるよりもむしろ親鸞なり。」とか、「余輩は名に就いて争わず、実に就いて争う。仏陀なりとて退けず。キリストなりとて迎えず。」というようなことを語っていますから、驚くべきではないかもしれません。

しかし、山本さんが引用された内村の

使徒ヨハネは言いました「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者で なくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。」(ヨハネの手紙第一2:22)私も同じ事を言い ます。明白にイエスをしかりイエスにみ、キリストと認めざる者は私の説く教えを解った人ではありません。
という言葉が示すように、人はイエスによってのみ救われる、という信仰者としての内村の立場もまた疑いえません。
およそよきものは主イエス・キリストより来る。愛と望みと信とはもちろん、智識も、美術も、労働も、労働の結果たる真正の富も、すべて主イエス・キリストより来る。今や彼によらずして人も国家も永久に善くかつ強くなることは出来ない。(明治36年)
このような内村のイエス中心主義をまとめて、彼は「人はイエスを信じてのみ救われる」と主張した、とわたしは間略して言ったのです。わたしは、イエスのいくつかの貢献を否定するものではありませんが、「智識も、美術も、労働も、・・・人も国家も」、イエスを必要とするなどという内村の主張は、イエスを普通の人間ではない(神の子、メシア)と思い込んだキリスト教の空想的ドグマに過ぎず、真理としての根拠は全くありません。内村もこのドグマから最後まで解放されることはありませんでした。それが、もちろん、わたしの内村批判ですが。


(2)「内村の信仰は自分の信仰でなく、神からの信仰」

信仰すらも神からの賜物、というのはおそらく、法然や親鸞の思想の影響だろうと思いますが、内村はいったいどのようにして、「自分の信仰」と「神からの信仰」を区別したのでしょうか。「神からの信仰」さえも、そう思い込んだに過ぎない人間の信仰ではないのか、というのがわたしにとってはきわめて重要な疑問なのです。

これからも、内村鑑三「英文及び訳文集」のページを楽しみにしています。