佐倉さんが、私の信仰に関する真剣なる考えに対して大いなる反論としての意見を下さりまして感謝いたします。
まず大前提であることは、佐倉さんが説く「キリスト教」と、私が述べる「キリスト精神」とは全くかけ離れたものであることをこれからは理解して、そしてしっかりとした自己の経験と信念との上で考えを述べてください。
私にとっても現代の既成キリスト教団体やそれに属する多くの信者に対しては、真のキリストの教えと聖書についての正しき信仰にあるとは全く考えておりません。
イエスがこの世にあった当時においても、現代においても組織化された集団にはキリスト精神は存在しません。イエス自身が宗教組織と教義・戒律主義を否定した個人的な信仰主義者であったことからしても明らかです。つまり、歴史上の偉大なるキリスト精神の実践者とは、組織や集団や国家レベルの行動にはなく、個人の信仰の中にしか存在しないものです。
キリスト精神における信仰とは絶対的唯一なる見えざる神と真理の存在を『イエスの生涯と教え(聖書の解釈)』を通して理想として確信できる精神を指すと信じます。
イエスの存在の確信と信仰にあることは既に『奇蹟』であるほどに、全ての人が容易に至る理屈や理論ではありません。知性や理性で理解しようとしてもいくら研究しても到達できないからこそ、キリスト教という形では簡単には信仰に至ることはできません。
私には、他の偽善的キリスト教信者よりは、あなたのほうが信仰に近い人であると考えます。つまり、キリスト教自体や既存のキリスト教的組織・社会に懐疑的であるのは、パウロでさえもそうであったように当然であります。
問題はあなたがいつまでも真理や理想に懐疑的な人生で満足できるのか、それともパウロのごとくあなたにも神の試練としての道が与えられていて、真のキリスト精神の信仰者となれる救いの人生となるかのどちらかであると考えます。
自力を越えた試練や死ぬ時は結局はなにかに頼らざるを得ません。あなたにとっても同じ事であり、私はそれほどにまで懐疑的であるキリスト教についての誤解さへ解ければきっと、もっと自己満足のする人生に至れるものと信じています。
きっと多くの反論や抗議やまたは賛同者の中で日々暮らしていることでしょうが、自己の魂だけはお守り下さい。
「真理への道に近づける救済の根本精神」とか「宗教革命的精神革命の旗手」とか「絶対的唯一なる見えざる神と真理の存在を・・・理想として確信できる精神」とか「自己の夢や高き理想の実現を目指す挑戦者の精神的支援機関の実現」というような、歯の浮くような空想的観念のバブルは、おそかれ早かれ、必ずはじけて砕け散り、そのバブルの袋の中に一人閉じこもっている田中さんは、やがて地上に放り出されることになるでしょうが、この観念のバブルが、あまり高く舞い上がってしまわないうちに、できるだけはやくはじけてしまい、地上に落ちたときのショックが田中さんにとってあまり大きくならないことを、神を信じないわたしも、正直言って、祈らざるを得ないような気持ちです。
「身近な生きた人々には全くといっていいほど強き信仰にある真理追究者は見当たりません」と言われていますが、友人や家族の人からは「そんな夢のようなことを言っていないで、もっと現実的になれ」などと、しごく当たり前のことを言われても、それを「試練」と見なして乗り越えようとする自己の雄姿を見つめながらやって来られた姿が目に浮かぶようです。
空想的観念のバブルの袋の中に一人閉じこもって唯我独尊を決め込んでいるひとに、わたしはいったい何が語れるでしょうか。何もありません。祈るような気持ちで、つぎのメッセージを送ります。
存在するものは、空言を弄する指導者と、職域感を失った人間機械なのだ。己の職業に、ただ一筋に年季を入れる根気、喜び、その為の条件はことごとく消えて、人間はまったく浮き草のような状態におかれている。自己の職域が、果たして死所なりや否やは、むろんむずかしい問題だ。迷いは大きいであろう。職業という限定は一つの諦念なのか、妄想なのか。適材適所などというのも虚妄の言葉に過ぎまい。それにしても、自己を定着せしめ、そこで熟練への熱意を起こさせるような条件は消滅したのだ。田中さんに必要なものは、「自己を定着せしめ、そこで熟練への熱意を起こさせるような」ひとつの職業ではないでしょうか。世界が必要としているのは、食を作り、住居を作り、衣料を作り、乗りものを作り、医療技術を開発し、詩を作り、画を作る、そのような熟練工だと思います。精神的指導者ではありません。理想主義とは、己の職業を探す苦労や熟練の苦労から逃れるための、卑怯者の言い訳に過ぎません。飢えるもののための米一粒も生産せず、寒さにふるえるもののために衣一つも編むこともせず、病むもののために薬一つも調合できず、恋に悩めるもののために詩ひとつ創作できぬ、そんな「高き理想」など屁のようなのものです。ところが指導者は、この深刻な不安を道徳的饒舌をもって埋めようとした。「精神主義」の名において。必要なのは熟練工・専門家であって、断じて指導者ではない。この最も不生産的なるものが、戦局が切迫してくるにつれて狂的性質を帯びていったのである。
すべて悲壮なる身振りは警戒を要する。指導者の熱狂ぶりと、それに感染した群衆の熱狂状態ほどおそるべきはない。国体信仰におけるファシズムに、これが明瞭に現れていたであろう。自分こそ最も信仰深き者であるかのごとく振舞い、その尺度に至らざるものは悉く国賊と罵る。つねに民衆を監視し、遅れたものとして之を啓蒙してやろうと身構えている。ここに最も恐るべき「宗教世界」が現出したのである。
(亀井勝一郎『わが精神の遍歴』より)