"The Buddhist schools differed among themselves to a great degree; they have, however, one thing in common -- the denial of substance (atman)."

「各仏教学派はその教義においてそれぞれ大いなる相違を示しているが、それでも一つの共通点をもっている。それはアートマンの否定である。」

(T.R.V. Murti, The Central Philosophy of Buddhism, p26)



(1)ウパニシャッドのアートマン説

仏教の無我説は何もない真空状態の中に突然生まれてきたのではなく、それなりの理由があって生まれてきたはずです。否定の主張にはそれが否定した、ある特定の主張の存在が前提となっているはずだからです。だれも肯定していないところにわざわざ否定の主張をするわけがありません。つまり、アートマン否定の背景にはアートマン肯定説があったはずです。それがまさにバラモン教であり、ウパニシャッドの思想(バラモン教の哲学的展開)です。

まことに、この偉大な、不生のアートマンは、不老、不滅、不死、安泰であり、ブラフマンである(『ブリハッド 4:4:25』)。
初期ウパニシャッドの思想家ウッダーラカやその弟子ヤージャニャヴァルキヤはつぎのような主張をしています。
真実の自己はアートマンであり、有(真実在)にほかならない。・・・一切の生類は有(真実在)を根底とし、拠り所としている。われわれは有を具体的なものとして認識することはできなけれども、しかし有(真実在)は見えざるものとしてわれわれの人格の根底に潜んで存在している。・・・生命の去ったとき、この肉体は滅びるが、しかし生命の本体は死ぬことがない。それは真実なもの、アートマンであるからである。・・・人は無限の生存を繰り返すのであるが、しかし人が師について万有の真理たる有(真実在)を悟ると、死後に完全に有と合一する(これが解脱の境地である)。それはあたかも故郷から連れ去られて人が、束縛・羈絆を脱して故郷に帰るようなものである。

(中村元、『インド思想史』、33〜34頁)

人間が死ぬと、その肉体は自然現象のなかに解消するが、不死のアートマンはそこから出ていって、あたかも草の葉の先端に達した青虫が次の葉に移るように、次の身体に移っていく・・・。

(長尾雅人、服部正明、『バラモン経典・原始仏典』、27頁)

この不死のアートマンの考え方は受け継がれ、インドにおける仏教以外のすべての宗教哲学の基本的な考えになっていきます。たとえば、中期ウパニシャッドの『カータカ・ウパニシャッド』においては、瞑想(ヨーガ)の目的は目に見えないこの人間存在の根底に潜んでいると想定される「絶対者アートマン」すなわち、不変不滅の魂のような存在を内観することであると説いています。アートマンを認めることは宗教的救済の根拠となっているわけです。また、後期ウパニシャッドの『マイトリ・ウパニシャッド』では、物質的アートマンと純精神的アートマンの二種に分けて、前者を捨てて後者と一体となることが解脱の道である、と説いています。

ヒンズー教の時代に至っても、この伝統は受け継がれ、たとえば、かの有名な『バガヴァッド・ギータ』のなかでは、武士族(クシャトリヤ)の王子アルジュナが、親族が相別れて戦争になった状態に苦しみ、親族を殺すような行為はしたくないと深く悩みますが、この悩みを救ったのがクリシュナ神でした。すなわち、クリシュナ神は、剣が殺すことのできるのは肉体だけであって、本当の個人存在であるアートマンは剣によって殺すことのできない永遠不滅の魂なのだから、恐れず武士の努めを果たせ、と勇気づけるのです。

アルジュナはそこに、父親、祖父、師、叔父、兄弟、息子、孫、友人たちが立っているのを見た。更に、義父、親友たちを見た。両軍の間に・・・。アルジュナはこれらすべての縁者が立っているのを見て、この上ない悲哀を感じて沈み込み、次のように言った。

「クリシュナ(神)よ、戦おうとして立ち並ぶこれらの親族を見て、私の四肢は沈み込み、口はひからび、私の身体は震え、総毛立つ。・・・クリシュナ(神)よ、戦いにおいて親族を殺せば、良い結果にはなるまい。クリシュナ(神)よ、私は勝利を望まない。ゴーヴィンダよ、私にとって王国が何になる。享楽や生命が何になる。・・・彼らが私を殺しても、私は彼らを殺したくない。・・・親族を殺して、どうして幸せになれよう・・・。」アルジュナはこのように告げ、戦いのさなか、戦車の座席に座り込んだ。弓と矢を投げ捨て、悲しみに心乱れて。

・・・クリシュナ(神)は微笑して、両軍の間で沈み込む彼に答えた。あなたは嘆くべきでない人々について嘆く。しかも分別臭く語る。賢者は死者についても生者についても嘆かぬものだ。私は決して存在しなかったことはない。あなたも、ここにいる王たちも・・・。また我々すべて、これから先、存在しなくなることもない。主体(個我)はこの身体において、少年期、青年期、老年期を経る。そしてまた、他の身体を得る。賢者はここにおいて迷うことはない。

しかしクンティーの子よ、物質との接触は、寒暑、苦楽をもたらし、来たりては去り、無常である。それに耐えよ、アルジュナ。それらの接触に苦しめられない人、苦楽を平等のものと見る賢者は、不死となることができる。非有(身体)には(真の)存在はない。実有(個我)には非存在はない。真理を見る人々は、この両者の分かれ目を見る。

この世界をあまねく満たすものを不滅であると知れ。この不滅のものを滅ぼすことは誰にもできない。常住で滅びることなく、計り難い主体(個我)に属する身体は有限であると言われる。それ故、戦え。アルジュナ。彼が殺すと思う者、また彼が殺されると思う者、その両者はよく理解していない。彼は殺さず、殺されもしない。彼は決して生まれず、死ぬこともない。彼は生じたこともなく、また存在しなくなることもない。不生、常住、永遠であり、太古より存する。身体が殺されても、彼は殺されることがない。彼が不滅、常住、不生、不変であると知る人は、誰をして殺させ、誰を殺すか。人が古い衣服を捨て、新しい衣服を着るように、主体は古い身体を捨て、他の新しい身体に行く。・・・

あらゆる者の身体にあるこの主体(個我)は、常に殺されることがない。それ故、あなたは万物について嘆くべきではない。さらにまた、あなたは自己の義務を考慮しても、戦慄くべきではない。というのは、クシャトリヤ(王族、士族)にとって、義務に基づく戦いに優るものは他にないからである。たまたま訪れた、開かれた天界の門である戦い。アルジュナよ、幸運なクシャトリヤのみがそのような戦いを得る。もしあなたが、この義務に基づく戦いを行なわなければ、自己の義務と名誉とを捨て、罪悪を得るであろう。・・・あなたは殺されれば天界を得、勝利するとすれば地上を享受するであろう。それ故、アルジュナよ、立ち上がれ。戦う決意をして。

(上村勝彦訳、『バガヴァッド・ギーター』、岩波文庫、28〜37頁)

ブッダ以前のヴェーダ聖典やウパニシャッドの思想から、より新しいヒンズー教の教えに至るまで、アートマンはいろいろな形で説かれていますが、それらに共通するアートマンの特徴としては、

(ア)死後も生残る永遠不変の存在である。
(イ)見えないけれど、それこそが真の自己である。
(ウ)それは宗教的救いの根拠である。
などをあげることができると思います。

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このように古代のヴェーダ聖典から、バラモン教、ウパニシャッド、ヒンズー教にいたるまで、アートマン思想を宗教の根底に置くインドの世界の真っただ中に仏教は生まれ、一貫してそれらと対立してきました。仏教の無我(アナートマン)説は、このアートマン説に対する批判であったと考えられます。