聖書が最初に書かれたとき神の聖霊が働いたかどうか知る由もないが、聖書が現代人の手に渡るまでの伝承過程では神の聖霊が働いたとはとうてい考えられない。発見される聖書の写本の内容が一致しないので、どれがオリジナルの内容かわからないからです。たとえば、ある写本ではカインは「さあ、野原へ行こう」とアベルを誘い出すけれど、他の写本ではカインの言葉は残されていないのです。
どちらの聖書が正しい?
ヤーヴェ神は、弟アベルと彼の捧げ物には「目を留められた」が、兄カインと彼の捧げ物には「目を留められなかっ た」ので、カインは「激しく怒って」弟アベルを野原に連れ出し殺してしまう。ところが、この物語は考古学が発見した聖書の写本のなかでも相違があって、どれがもとの物語であったかわからないのです。それで、どの写本を元にして現代語訳するかによって、私たちの持つ聖書の内容が変わってくるのです。以下はどちらも創世記4章8節からの引用です。
日本聖書協会の「改訳版」
カインは弟アベルに言った。「さあ、野原へ行こう。」
彼等が野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。日本聖書協会の「共同訳版」
カインが弟アベルに声をかけ、彼等が野に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
相違は、改訳版ではカインが「さあ、野原へ行こう」と言ったことになっていますが、共同訳版ではカインが何をいったのかわかりません。内容に矛盾が生じるわけではありませんが、聖書を神の言葉として、一切の間違いもないと信じるクリスチャンは、聖書にいかなる言葉も新しく加えても差し引いてもいけないことを強く主張して次のような言葉を聖書から引用します。
ヨハネの黙視録22:18-19
この書物の預言の言葉を聞くものすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木となる聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれるであろう。
さてそうすると、もし、聖書の原本に「さあ、野原へ行こう」というカインの言葉があったとすれば、共同訳版の翻訳者たちは神の祝福から退けられることになりそうです。彼らはその言葉を聖書から取り除いたことになるからです。また、その言葉が原本になかったとすれば、改訳版の翻訳者たちの方が神の祝福から退けられることになりそうです。彼らは聖書になかった言葉を加えたことになるからです。しかし、実は、改訳版や共同訳版の聖書翻訳者たちが勝手にその言葉を付け加えたり、取り除いたりしたのではないのです。改訳版の翻訳者たちはおそらくセプタギンタ写本をもとに翻訳をし、共同訳版の翻訳者たちはマソラ本をもとに翻訳したからでしょう。わたしたち現代人に伝承されたものの間に相違があるので、こういう結果になったわけです。したがって、聖書が現代人の手に渡るまでの伝承過程では神の聖霊はあまりよく働かなかったことになります。そうすると、最初に聖書が書かれたときは神の聖霊が働いたのですべて書かれていることは真理であるという主張自体も意味がなくなります。その聖書が完全な形で私たちの手元に伝承されなかったからです。