ノアの大洪水の物語は古代メソポタミアの文学『ギルガメッシュ叙事詩』から取り入れられたものである。
1872年、当時大英博物館の遺物修理員であったジョージスミス氏は、古代都市ニネヴェの王宮付属図書館の遺跡から発掘された粘土版のなかに、ノアの物語と酷似した物語があることを発見しました。この発見や、その後発掘されたものから明らかにされたことは、それは、前二千年紀の中頃、メソポタミアで愛好されていた古バビロニアの英雄物語『ギルガメッシュ叙事詩』の一部であったことです。それは、もともとシュメール都市文明のなかで生まれたものが、後に、アッシリア語、バビロニア語、ヒッタイト語、フリル語、などに翻訳されて、多くの古代諸民族に愛好された物語である。発掘されたもの最古のものは前21世紀頃の楔型文字シュメールで残されたものです。実に、旧約聖書が書かれ始めた時代より千年以上も前のことです。この『ギルガメッシュ叙事詩』の「ウトナピシュティム物語」の部分がノアの洪水物語に対応する部分です。舟が山の上で止まり、水が引いたかどうかを見るために、カラスや鳩を放ったこと、その鳩が止まるところが見つからず、戻ってきたこと、などという具体的なモチーフまで、ノアの物語とよく似ているので、この相似が偶然でないことは明らかです。つまり、ノアの物語は盗作だったのです。
旧約聖書のノアの洪水物語が、メソポタミアの古代文書と一致しているという事 実は、必ずしも「聖書の間違い」を論拠づけるとは言えないのではないでしょう か。むしろ、聖書の記述が、事実と無関係に考え出された創作ではなく、他のメ ソポタミアの文学と同様、かつて実際に起こったある事実に基づくものであると いう主張を論拠づけるものとして解釈することも可能だと思います。 私がかつて属していたファンダメンタリズムの教派(カルヴィニズムの系統)で は、機械的霊感説と、有機的霊感説とを区別しており、後者の方を採用していま した。
つまり、聖書記者たちは神の霊感の下に聖書を記したにせよ、彼らが全く聖霊の 機械や道具と化して、自分の意志や知性と無関係に、あたかも恍惚状態の中に聖 書を記述したわけではなく、他の文書を参照したり、それらを編集したり、彼ら が自分自身の知性や意志などの人間的な諸能力を働かせつつ聖書を記述した可能 性を排除していません。その人間的作業の中に、神の聖霊が働いて、彼らの仕事 が、誤りなき神の言葉として完成したものになるように導いたと理解しているよ うです。
世界のさまざまな神話の中に洪水が出てきますが、それらはみな古代人の洪水体験がもとになっていると考えられています。古代人にとって洪水がいかに大きな意味を持っていたかは、科学の進んだ現在でも洪水がしばしば大きな問題となることから、容易に想像されます。ギルガメッシュ叙事詩における洪水も、聖書における洪水も、もともと、古代人の地域的洪水の体験がもとになっているのであろうことも、また認められています。
問題は、洪水という、どこにでもある単なる事実ではなく、その事実を土台にして造り上げられた「物語」の部分にあります。先ず第一に、物語の背後には歴史的事実がある、というようなことは、ほとんどすべての文学に当てはまるもので、それをもって、あたかもその物語全体が歴史的事実であると思い込むことは論理的にあきらかに間違っています。例えば、聖書の洪水物語では、それが地域的なものではなく、全世界を覆い尽くしたものという話に発展しているわけですから。
第二に、ギルガメッシュ叙事詩の洪水物語と聖書の洪水物語は、単なる「洪水が起きた」という事実部分だけでなく、例えば、水が引いたかどうか調べるために鳩を放ったというきわめて具体的な物語部分においてさえ一致していることです。このことは、どちらかが他方をまねた、と考えるのがもっとも合理的です。考古学的発見によれば、聖書の登場よりもギルガメッシュ叙事詩のほうが圧倒的に古く(シュメール文明までさかのぼる。)、多くの言語に訳され大衆に愛されてきた文学でだったのです。どちらがどちらのまねをしたか、ほとんど疑問の余地はありません。
それに比べて、旧約聖書が書かれたのは、その多くは西暦前6世紀以後で、古いものでも、せいぜい西暦前十世紀です。これらの断片の調査を始めてまもなく、わたしは半分になった妙な書版を見出したが、それは当初は明らかに六つの欄を持っていたものであった。その第三欄を見ていると、わたくしの眼は、船がニシルの山にとまった、という記述をとらえられた。それには、鳩を放したこと、それが立ち止まるところもないので戻ってきた、と言う話が続いていた。わたしは、すぐさま、ここに「大洪水」のカルデア版のすくなくとも一部分を発見したことを見て取った。(ジョージ・スミス、ロンドン大英博物館の遺物修理員、ギルガメッシュの洪水物語の書版の発見者、1876年の記録より、高橋正男訳)
『ギルガメッシュ叙事詩』は、紀元前第二千年紀中葉にメソポタミアに流布していた古バビロニアの英雄叙事詩で、古代オリエントの最大の文学作品である……。その原型は、シュメールの英雄物語に端を発し、バビロニアのメソポタミア統一を背景にしてバビロン第一王朝時代にアッカド語の叙事詩として完成されたものである。本来はおのおも独立した物語が英雄ギルガメッシュを主人公とする史詩に編纂されたもので、最古の断片は紀元前二十一世紀ころの楔形文字シュメール語の写本で、ウル第三王朝(前二十一世紀)時代にほぼその原型がつくられたものと推定されている。この物語は広く諸民族の間に愛好されたため、最古のシュメール語の写本の他にアッシリア語、バビロン語、ヒッタイト語、フルリ語などの各国語に翻訳されたものが伝わっている。多くの異本のなかに不一致の箇所が少なくないことはさらに古い写本または原典が存在することを想像させるものである。(高橋正男『旧約聖書の世界』より)
このように、二つの物語が、背景となった事実の部分だけでなく、それを土台に造り上げられた物語に使用された具体的なモチーフが一致していること、そして、聖書は、ギルガメッシュ叙事詩に比べて、歴史的にずっと遅れて、登場したこと。さらに、聖書を書いた民が歴史に登場した地域(メソポタミア・パレスチナ)で、このギルガメッシュの叙事詩は広く流布していて、聖書を書いた民も容易に接することができたこと、これらの理由で、ギルガメッシュの洪水物語を「ノアの洪水物語の原型」(高橋正男)と解するのは、きわめて合理的だと思います。(そのほかにも、旧新聖書が古代メソポタミアやギリシャ・ローマの文化を取り入れている事実は沢山あるようです。)
つぎに、「有機的霊感説」について。この説によれば、
聖書記者たちは…他の文書を参照したり、それらを編集したり、彼らが自分自身の知性や意志などの人間的な諸能力を働かせつつ聖書を記述した可能性を排除していません。その人間的作業の中に、神の聖霊が働いて、彼らの仕事が、誤りなき神の言葉として完成したものになるように導いたと理解しているようです。わたしには、その歴史的経緯はよくわかりませんが、おそらく、単純な「機械的霊感説」では彼らの聖書信仰が説明しきれなくなり、それを克服するために「有機的霊感説」はあとから生まれたものでしょう。
「有機的霊感説」は、「機械的霊感説」の困難を克服したかも知れませんが、その代償として、実はもっと大きな、新しい問題を生み出します。つまり、人間の自由意思の問題です。もし、人間がその自由意思に従って行動しているにもかかわらず、一切の誤謬を含まない聖書を書かせるように、神が導くことができるという、そんな便利なことが可能なら、なぜ聖書を初めに書いたときだけがそうであって、他の時はそうではないのか。つまり、なぜ、聖書伝承過程ではそうではなかったのか。なぜ、聖書翻訳や聖書写本は間違いだらけなのか。さらに、なぜ、いつでもだれにでもそうではないのか。また、この同じ「便利な」論理に従えば、事実認識に関する間違いだけでなく、道徳的にも間違いをおこさないように、神は人間を導くことができるはずなのに、なぜそれをしないのか、なぜアダムとエバが間違いをおこさないように、神は導かなかったのか、なぜクリスチャンはお互いに争うのか、等々。
「ノアの洪水物語は盗作だった」に関する佐倉さんへの反論 私は、「ノアの洪水物語が盗作である」という佐倉さんの指摘を批判したわけで はありません。また、ノアの洪水物語が、他のメソポタミアの古代文書と一致す るからこそ、聖書の記述は歴史的事実と合致すると主張したわけでもありませ ん。
私が、指摘したのは、「ノアの洪水物語が盗作である」という佐倉さんの指摘 は、「聖書の間違い」を検証するという当研究の目的に、資するものでは全くな いということです。
それは次の点で明らかです。 まず、「聖書の誤り」とは、佐倉さんが冒頭の方法論の箇所で書かれているよう に、