イエスが処刑されるようになったいきさつにはイエスの弟子であったユダの裏切りがあったことはよく知られています。彼は銀貨三十枚で、イエスの居所を教えたのです。マタイの福音書とルカの使徒行伝だけが、この背教者ユダの死について記録していますが、このユダの死にまつわる二つの記録はかなり矛盾しています。
裏切り者ユダの死
イエスが処刑されるようになったいきさつにはイエスの弟子であったユダの裏切りがあったことはよく知られています。彼は銀貨三十枚で、イエスの居所を教えたのです。マタイの福音書とルカの使徒行伝だけが、この背教者ユダの死について記録していますが、このユダの死にまつわる二つの記録はかなり矛盾しています。
マタイによる福音書 27:3-10二つの記録を読んで、まず一番目につくのは、ユダの死に方が違うところです。マタイによれば、ユダは首をつって自殺したことになっています。使徒行伝によれば、飛び込み自殺か、それとも事故なのかわかりませんが、ずいぶん高いところから落下したことになっています。
そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「われわれの知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談の上、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。こうして預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の値である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」使徒行伝 1:16-20a
「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、ユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で、『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。詩編にはこう書いてあります。 『その住まいは荒れ果てよ、 そこに住む者はいなくなれ。』 …。」
次に、イエスを裏切って受け取った銀貨の行方が全然違います。マタイによれば、ユダは後悔して銀貨を返しに行き、神殿にそれを投げ込んで去ります。そこで、祭司長たちが「血の代金」だから神殿が受け取ることは出来ないとして、畑を買って外国人用の墓地にした、ということになっています。ところが、使徒行伝によれば、ユダ自身が「不正を働いて得た報酬で土地を買った」ことになっているのです。
どちらも、ユダの事件は(旧約)聖書の預言が成就するためのものであったというのですが、マタイによれば、それはエレミヤの預言の成就ということになっています。ところが、使徒行伝によれば、ダビデの預言の成就であった、ということになっているのです。
しかも、マタイが引用する
彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の値である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。という表現はエレミヤ書にもどこにもないのです。強いて言えば、
わたしは、これが主の言葉によるものであることを知っていた。そこで、わたしはいとこのハナムエルからアナトトにある畑を買い取り、銀十七シェケルを量って支払った。(エレミヤ32:8b-9)などを挙げることが出来ますが、全然内容が違います。マタイの引用では、おそらくマタイの記憶違いで、エレミヤ書のアナトトの畑を飼う物語とゼカリヤ書の鋳物師に銀を投げ与える物語が、ミックスされてしまったのでしょう。わが神なる主はこう言われた。屠るための羊を飼え…。わたしは屠るための羊を、羊の商人たちのために飼った…。わたしは彼ら [商人] に言った。「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。」彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。主はわたしに言われた。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値を付けられた見事な金額を。」わたしはその銀三十シェケルを取って、神殿で鋳物師に投げ与えた。(ゼカリヤ11:4-13)
使徒行伝の引用は、ユダの買った土地が、呪われて荒れ果て誰も住む者がいなくなったことを言おうとしています。詩編の原文と比べてみましょう。
彼らの宿営は荒れ果て、天幕に住む者もなくなりますように。(詩編69:26)詩編においては、これは単に、イスラエルがその敵を呪う長い詩の一部なのですが、これを、ユダ事件の預言と解釈するところに、初期のクリスチャンたちが、いかに、自分たちの信仰に都合のよいように、強引に(旧約)聖書を解釈しているかがよく見えます。新約聖書がたびたび主張する「預言の成就」の実体とは、実は、こんなものが多いのです。その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。(使徒行伝1:20aの引用)
このように、裏切り者ユダの死に関する物語では、マタイとルカの使徒行伝の間で、ユダの死に方、銀貨の行方、預言の成就などに関して、矛盾した記録を残しています。